人間は本来好戦的なのか、それとも社会によって「戦うこと」を学ぶのか――。
この問いほど不安をかき立てるものは多くありません。この議論は古くからあり、いまも決着していません。一方には、暴力は人間に生まれつき備わった特性であり、ゼロから学ぶものではなく「人間の本性」に組み込まれているという見方があります。もう一方には、戦争はいつの時代にも存在したわけではなく、特定の社会条件のもとで初めて現れ、人々の暮らし方が大きく変わってから一般的になったという考えがあります。
この問いが強いインパクトを持つのは、答えが単に生物学だけでは決まらないからです。同時にそれは社会の問題でもあります。法律や規範、制度、人間集団の組織のされ方と深く結びついているのです。
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なぜこの問いはそれほど難しいのか
人間は高度に社会的な動物です。人間の生活は、協力、役割分担、言語、そして組織化された社会関係を軸に成り立っています。人は孤立した個人としてだけでは生き延びられず、ニーズも満たせません。人々は、期待やルール、制度によって形づくられた集団のなかで暮らしています。
ここに、戦争をめぐる議論の核心となる緊張関係が生まれます。人間が根本的に協力的な存在だとすれば、組織的な殺戮や大規模な武力衝突は、どうその像の中に収まるのでしょうか。また、もし暴力がさまざまな人間集団で見られるとして、それは「自然」だからなのか、それとも社会が行動をどれほど強く形づくるかを示しているだけなのでしょうか。
社会とは、単なる人の集まりではありません。そこには人間関係のパターン、共有された文化的期待、そして制度があります。制度には、政府、法律、社会規範などが含まれ、これらは社会の成員がどのような行動を「許容できる」「許容できない」とみなすかに大きく影響します。戦争を理解しようとするとき、これは決定的に重要です。
ひとつの立場は、戦争は競争相手を排除するために進化した、とみなします。この見方では、暴力は人間に本来的に備わった特徴です。「先天的」とは、生まれつき備わっているという意味で、すべての人が常に同じように表すということではなく、「種としての行動の可能性」の一部であることを指します。
この考え方は、他の霊長類との比較から一定の説得力を得ています。人間は、他の霊長類と同程度の割合で、同種である人間に対して暴力を振るいます。同時に、人間は成人を殺す割合が比較的高い一方で、乳幼児殺しの割合は比較的低いという特徴もあります。これだけで議論に決着がつくわけではありませんが、人間の暴力を動物界とは切り離された特殊なものとみるのではなく、より広い生物学的な文脈に位置づけることになります。
このような生物学的な枠組みは、人間を「協力」と「対立」の両方の能力を自然に備えた社会的動物とみる、より大きな図式にも合致します。人間社会は非常に協力的である一方で、支配関係、階層化、そして組織的な紛争を生み出す能力も持っているのです。
「戦争は後から生まれた」という主張
反対の立場は、戦争は比較的最近になって現れた現象だと主張します。この見方では、戦争があらゆる時代・地域で初期の人類を規定していたわけではありません。むしろ、変化する社会条件のなかで姿を現したものだとされます。
ここで取り上げる証拠はこの方向性を示しています。戦争的な行動が一般的になるのは約1万年前であり、多くの地域ではさらに最近になってからだと考えられています。
この年代が重要なのは、戦争が人間生活の永遠の特徴ではないかもしれないことを示唆するからです。大規模で組織化された暴力が、特定の段階に入ってはじめて一般化したのだとすれば、ある種の社会組織のあり方が、その条件づくりに寄与した可能性があります。
技術、食料生産、定住形態、政治組織の変化などが、時間をかけて社会を変容させてきました。人間集団は、小規模な狩猟採集社会から、より定住的な園芸・農耕社会へ、さらに工業社会・ポスト工業社会へと発展していきました。これらの移行によって、労働、身分秩序、政府、交易に至るまで、あらゆるものが再編成されました。戦争が一般的な社会慣行として台頭したのは、まさにこのような大きな転換のなかに位置づけられる、と考える論者もいます。
人間社会では何が変わったのか?
ひとつの重要な手がかりは、社会が技術、経済、政治組織によって大きく異なるという事実です。小規模な狩猟採集バンド(小集団)は、一般に比較的平等主義的で、人数も少なく、多くの場合コンセンサス(合意)によって意思決定を行っていました。のちの国家のように、強い権限を持つ正式な政治的役職は存在しませんでした。
その後に現れる社会の姿は、しばしばまったく異なります。牧畜社会や園芸社会は、食料の余剰を生み、労働の専門化を進めることができました。とりわけ農耕社会は、豊富な食料供給、より大きな共同体、都市、交易拠点、支配階級、そして支配層と生産者層とのあいだの鋭い分断を生み出しました。これらの社会は、土地所有と結びついた厳格な階層制と強固なヒエラルキーによって特徴づけられました。
人口がより大規模で高密度な共同体に集中するにつれ、集団内外の統治もより発達していきました。政府は法律や政策を作り、政治・宗教・軍事の権力を結びつける制度が生まれました。こうした変化によって、社会は大規模に人を動員する能力を高めました。それは生産のためであると同時に、潜在的には紛争のためでもありました。
もし、戦争がこうした変容の後になってはじめて一般化したのだとすれば、社会構造がきわめて重要だということになります。戦争は、単なる「むき出しの攻撃性」の表れではないかもしれません。むしろ、組織されたリーダーシップ、ルール、資源、そして暴力を指揮できる制度に依存している可能性があります。
系統解析と「2%」という数字
この議論のなかで、とりわけ目を引く数字のひとつが「系統解析」から導かれたものです。系統解析とは、進化の系統樹を用いて、種をこえて特徴を比較し、時間を通じたパターンを探る方法です。近縁種の行動パターンを調べることで、人間において進化的に「どの程度の行動」が期待されるかを推定できます。
この種の解析によると、人間の死因のうち約2%は殺人によるものだと予測されます。殺人とは、人間が人間を殺すことです。
興味深いことに、この推定値は、バンド社会における殺人率とおおよそ一致します。バンドは、狩猟採集生活にしばしば関連づけられる小規模な社会集団です。この比較から、「致死的な暴力が、ある一定の水準で人類史に組み込まれているのではないか」と示唆されてきました。
しかし、これは物語の一部に過ぎません。
社会は暴力を大きく引き下げられる
暴力の発生率は、社会規範によって大きく変わります。規範とは、「どのような行動が受け入れられるのか」をめぐる共有された基準です。規範は非公式のものもあり、日常生活を通じて自然と身についていきますし、形式的なルールや法律という形をとることもあります。
重要なのは、法律制度を持ち、暴力に対して強い否定的な文化的態度をもつ社会では、殺人による死亡率が約0.01%にまで下がっているという点です。
2%からの、これは途方もない減少です。
無視しがたい含意があります。たとえ人間に、ある程度「進化によって形成された暴力の能力」があるとしても、社会のあり方次第で、その能力が実際に殺人に結びつく頻度は劇的に減らせるということです。法律、規範、制度は、生物学の「表面」に乗った薄皮のようなものではなく、結果そのものを深く左右しうるのです。
ここでよく引用される表現が、「生物学はサイコロに重りを仕込み、社会はそのサイコロを振る」というものです。人間には、生まれつきの傾向があるかもしれません。しかし、その傾向がどのように制御され、報酬を与えられ、罰せられ、逸らされるのかを決めるのは社会なのです。
規範・役割・制度の力
社会規範は、人間の行動を動かす強い原動力です。それは、人々に「何が称賛され、容認され、禁止され、処罰されるのか」を教えます。社会的役割も同様に、その人が社会のどの位置にいるかに応じて、義務や期待を結びつけます。
制度は、こうした期待を持続的なものにします。政府は法律と政策を作り、法制度は暴力を抑止しうる仕組みを提供します。共有された文化的態度は、「人を殺すこと」をきわめて受け入れがたいものにできます。これらが組み合わさることで、殺人率は大幅に下がりうるのです。
とはいえ、すべての社会が同じように機能するわけではありません。人間の行動は、社会ごとに大きく異なります。人間は社会を形づくる一方で、社会もまた人間を形づくします。この双方向の関係がきわめて重要です。暴力は生物学だけでも、文化だけでも説明できません。人間の行動は、その両者が相互作用するところから生まれてくるのです。
戦争・紛争・組織化された社会
社会学の「コンフリクト理論(対立理論)」は、社会は合意よりもむしろ対立によって形づくられていると強調します。この観点からは、組織化された暴力は、特に富や権力が不均等に分配されているとき、階級や集団間の闘争と結びつけて理解されます。
これとは別に、社会統合や共有された意味に焦点を当てる社会学的視点もあります。機能主義の立場は、社会的役割や制度がどのように社会を統合し、維持しているかを重視します。シンボリック相互作用論は、共有された意味やシンボルが人間の行動をどう形づくるかに注目します。アプローチは異なっても、どれも共通して示しているのは、「社会は受け身の背景ではなく、人間の行為を積極的に組織している」という点です。
この洞察は、戦争を個々人の攻撃性に還元できない理由を説明する助けになります。戦争は「組織化された紛争」です。そこには、人々を動員し、敵を定義し、服従を強制し、暴力を正当化できる社会システムが必要です。
では、戦争は人間の本性なのか?
もっとも誠実な答えは、「単純なイエスかノーでは済まない複雑さがある」ということでしょう。
人間が進化の過程で「暴力の能力」を獲得してきたという考え方を支持する証拠はあります。人間は動物界の一員であり、致死的な暴力が私たちの生物学的な遺産から完全に欠けているわけではありません。系統解析は、ある程度の「基準値」を示しています。そこから、「暴力は先天的だ」と主張する論者もいます。
しかし同時に、戦争を「人間存在にとって避けがたい常数」とみなす考えには、強い反論の根拠もあります。戦争的な行動が一般的になるのは約1万年前からであり、多くの地域ではそれよりも後です。殺人率は社会によって驚くほど異なり、強い規範と制度によって殺人をきわめて低い水準まで抑え込むことも可能です。
つまり、戦争は「完全な宿命」でも「純粋な偶然」でもありません。人間の本性が潜在的な可能性を提供し、その可能性が「まれなもの」になるのか、「容認されるもの」になるのか、「大規模に組織されるもの」になるのかを決めるのは、社会条件なのです。
言い換えれば、証拠が示しているのはこういうことです。人間は本性として戦争が「可能な」存在かもしれない。しかし、人間が実際にどれほど暴力的な社会を生きることになるかは、どのような社会を築くかに大きく依存しているのです。

















