第一次世界大戦が始まった当初、セルビアが戦場でオーストリア=ハンガリー帝国に屈辱を与えるなどと予想した人はほとんどいませんでした。しかし、まさにそれが起きました。1914年、ツェルの戦いとコルバラの戦いで、セルビア軍はオーストリア軍の攻撃を大損害を与えながら撃退し、20世紀を代表する「大番狂わせ」のひとつとも評される勝利を収めたのです。
これは単なる弱小国の痛快な逆転劇にとどまりません。セルビアの粘り強い抵抗は、その国境をはるかに超える影響を及ぼしました。オーストリア=ハンガリーが多くの兵力をバルカン戦線に釘付けにされることになり、対ロシア戦全体の戦力を削いだからです。世界大戦へと発展していくこの戦争において、小さな戦線が不釣り合いなほど大きな役割を果たしたと言えます。
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なぜセルビアはそれほど重要だったのか
セルビアは、この戦争の引き金となった危機の中心に位置していました。1914年6月28日、サラエボでフランツ・フェルディナント大公が暗殺されると、オーストリア=ハンガリーはその責任をセルビアに押し付け、7月28日に宣戦布告します。そこで始まったのは、局地戦にとどまらない、欧州列強を巻き込んだ大規模な戦争の幕開けでした。
当時、バルカン半島はすでに「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。この表現が示していたのは、民族主義や怨恨、不安、そして大国と小国の利害が絡み合った危うい均衡です。オーストリア=ハンガリーにとって、セルビアの勢力拡大は帝国の存続そのものを脅かすものと映っていました。一方ロシアは、セルビアをはじめとするスラブ系国家を支援していましたが、自らの南下政策もあって、情勢はさらに不安定さを増していました。
こうした中で、オーストリア=ハンガリーがセルビア侵攻に踏み切ったことは、政治的にも軍事的にも途方もない意味を持っていました。ウィーンの指導部が求めたのは単なる懲罰ではなく、ボスニア情勢にセルビアが干渉する余地を根本から断つことでした。
オーストリア=ハンガリーは1914年8月、セルビアへの攻勢を開始します。8月12日から、ツェルとコルバラでオーストリア軍とセルビア軍が激突しました。その後2週間にわたり続いた攻撃は、オーストリア側に大きな損害を出して撃退されます。
この結果は、多くの人に衝撃を与えました。オーストリア=ハンガリーが列強であったのに対し、セルビアははるかに小さく、資源も限られていたからです。それにもかかわらず、1914年の侵攻でセルビアが勝利したことは、戦争初期を象徴する大きな番狂わせとなりました。
この物語の中で名が挙がる2つの戦いは、それぞれ別々の重要性を持っていましたが、合わせて一つの事実を物語っています。それは、侵攻側が防御側を著しく侮っていたということです。電撃的な勝利を狙ったオーストリア=ハンガリーは、予想外の激しい抵抗に直面し、結果として屈辱的な敗北を喫しました。
「番狂わせの勝利」とは、本来不利と見なされていた側が、誰もが勝つとみていた強者を打ち破ることを意味します。スポーツであれば、そのニュースは数日で色あせるかもしれませんが、戦争においては、大陸規模の戦略を左右しうる出来事となり得ます。
なぜこの番狂わせはセルビア以外にも打撃を与えたのか
セルビアの勝利は、単に一時的にセルビアを守っただけではありません。オーストリア=ハンガリー帝国に、かなりの兵力をセルビア戦線に張り付けたままにせざるを得なくさせたのです。これは、帝国が東部戦線でロシアとも戦っていたことを考えると、極めて重大な意味を持ちました。
複数の戦線で戦う戦争では、ある戦場に送った兵力は、他の戦場では使えません。セルビアがバルカンでオーストリア=ハンガリー軍を引きつけ続けたことで、同帝国の対ロシア戦は相対的に手薄になりました。これこそが、セルビアの成功が生み出した「波及効果」です。局地戦での結果が、より広い戦略レベルでの負担増につながったのです。
もともとオーストリア=ハンガリーは深刻な軍事的プレッシャーにさらされていました。東部ではロシア軍との激しい戦闘が続き、多大な損害が出ていたのです。セルビア戦線に師団を割き続けることは、他戦線の柔軟な対応力を削ぐことになりました。言い換えれば、セルビアは帝国の全軍事力を打ち破る必要はありませんでした。持久的に打撃を与え、前進を遅らせ、注意力と兵力を分散させ続けるだけで、大きな意味を持ち得たのです。
セルビアにとっての数少ない明るい瞬間
戦争開戦直後の時期は、ヨーロッパ全域で凄惨を極めました。西部戦線では巨大な軍隊同士が衝突したのち、やがて塹壕戦に移行します。塹壕戦とは、有刺鉄線と機関銃、砲兵などによって守られた陣地線を掘り下げて構築し、にらみ合う戦い方です。東部戦線ではより機動的な戦いが続きましたが、こちらも犠牲は莫大でした。こうした中で、1914年のセルビアの勝利は、ひときわ目立つ存在となりました。
この勝利はまた、セルビア軍の初期の評判を形作るうえでも重要でした。セルビアはすでに、緊張と不安定さが渦巻く地域であるバルカン戦争を戦い抜いたばかりでした。そうした国が、今度は大国の一つである帝国に挑み、勝利したのです。
とりわけバルカンでは、この意味は大きいものでした。第一次および第二次バルカン戦争の結果、国境は大きく塗り替えられ、不満や憤りはかえって深まり、多くの国が「本来得られたはずの領土を奪われた」と感じていました。そうしたなかで、オーストリア=ハンガリーに抵抗し得たセルビアの姿は、単なる一国の軍事行動を超えて、「屈服しない象徴」として受け止められたのです。
この戦役で生まれた「史上初」の出来事
セルビア戦役では、特筆すべき二つの節目も生まれました。
一つは、対空戦闘の初の事例です。オーストリア軍機が地上からの射撃によって撃墜されました。対空戦闘とは、地上から上空を飛ぶ航空機に向けて射撃し、撃ち落とそうとする行為のことです。1914年当時、航空機はまだ新しい兵器で、主に偵察や観測に使われていました。そうした航空機が地上から撃ち落とされたことは、将来、空中戦が近代戦争において重要な要素となっていくことの、早い段階での兆しでもありました。
もう一つは、セルビア軍による初の医療搬送(メディカル・エバキュエーション)が行われたことです。医療搬送とは、負傷した兵士を戦場から組織的に後送し、別の場所で治療を受けさせる仕組みのことです。現代では当たり前に思えるかもしれませんが、第一次世界大戦当時、各国軍隊は工業化された大規模戦争の犠牲者にどう対応するか、まだ模索している段階でした。
こうした細部は、西部戦線の陰に隠れがちなこの戦役もまた、戦争そのものの変質の一部であったことを示しています。第一次世界大戦は、単なる帝国同士の衝突にとどまらず、新たな戦法や技術、軍事システムを試す実験場ともなっていたのです。
1915年、流れは逆転する
しかし、セルビアの華々しい防衛戦も、永遠には続きませんでした。1915年、戦況は決定的にセルビア不利へと傾きます。
1915年最初の10か月間、オーストリア=ハンガリーは予備兵力の大半をイタリアとの戦いに投入していました。しかし、その後の外交の動きが戦略状況を一変させます。ドイツとオーストリア=ハンガリーは、ブルガリアを説得してセルビア攻撃に参加させることに成功し、ブルガリアは1915年10月14日にセルビアへ宣戦布告しました。
これにより、同盟国側(中央同盟国)は複数方向からセルビアを攻撃できるようになります。中央同盟国とは、ドイツとオーストリア=ハンガリーを中心に、オスマン帝国、そして後にブルガリアが加わった戦時同盟のことです。ブルガリアの参戦によって、セルビアははるかに危険な状況に追い込まれました。
マッケンゼン指揮下のオーストリア=ハンガリー軍がすでに攻撃を開始しており、中央同盟国側は総勢60万の兵力を投入しました。二正面からの攻撃を受け、敗北が避けられないと悟ったセルビア軍は、アルバニア北部へ撤退します。この撤退は、戦役全体の中でも最も苛烈な局面の一つとされています。生き残ったセルビア兵たちは、最終的にギリシャへと避難させられました。
アルバニアを経由しての撤退は、アドリア海沿岸へ向け、非常に険しい地形を踏破していくことを意味していました。これは余裕ある戦略的後退などではなく、圧倒的な攻勢の前で戦線そのものが崩壊する中での、過酷な退避行でした。
征服後、セルビアはオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割されます。
勝利から生存へ
第一次世界大戦におけるセルビアの物語が印象的なのは、そこに栄光と破局の両方が詰まっているからです。1914年、セルビアは戦争全体の中でも驚きを誘う勝利を収めました。しかし1915年には、国土は蹂躙されてしまいます。
この落差こそが、この戦役を今なお語り継がれる出来事にしている理由の一つです。セルビアは、小国であっても大帝国を震撼させ得ることを示しましたが、同時に、同盟網に支えられた大規模戦争の機構が、一国の抵抗をいかにあっけなく押し流してしまいうるのかも明らかにしました。
ブルガリアが攻撃側に加わり、中央同盟国が作戦を連携させた時点で、セルビアはもはやオーストリア=ハンガリー単独と向き合っているのではありませんでした。戦争はさらに複雑に絡み合う局面へと進み、その代償をセルビアは負うことになったのです。
なぜ1914年のセルビアの勝利は今も特別視されるのか
第一次世界大戦の多くの戦いは、膠着状態、膨大な死傷者、そしてわずかな領土の奪い合いとして記憶されています。そうした中で、1914年のセルビア戦役が際立っているのは、その結果が明快で、しかも予想外だったからです。
オーストリア=ハンガリーは侵攻を試みましたが、逆に撃退されました。損害は甚大で、政治的な屈辱も大きく、戦略的な影響は即座に現れました。ロシアとの戦いを強化し得たはずの兵力が、バルカンに釘付けにされたのです。
だからこそ、セルビアの防衛戦は、より名高い戦線と並んで注目されるべき出来事だと言えます。これは脇役的なエピソードではありません。第一次世界大戦が、いかにして作戦計画を崩壊させ、帝国をつまずかせ、「弱い」と見なされていた国々でさえ、一定の期間とはいえ戦局を揺るがしうるかを、早い段階で示した象徴的な出来事でした。
セルビアの番狂わせが戦争そのものに決定的勝利をもたらしたわけではありません。しかし、それは戦争の「第1章」を書き換えました。そして、ほんの一瞬とはいえ、格下と見なされていた側が、大きく反撃の一撃を叩き込んだのです。


















