第一次世界大戦:ヨーロッパから遠く離れた戦争

第一次世界大戦と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、フランスやベルギーの塹壕戦でしょう。ですが、戦争はヨーロッパをはるかに超えて広がっていました。開戦からほどなくして、戦闘と征服の波は太平洋、中国、アフリカにまで及びます。ドイツの植民地や海外海軍基地は早々に標的となり、一方で少数のドイツ軍艦が連合国の通商路を脅かそうと海に乗り出しました。

こうした遠隔地での作戦は、多くが即興的で動きが速く、それでいて驚くほど重大な影響を及ぼしました。太平洋では、ドイツ領は数か月のうちに陥落します。海上では、エムデン(SMS Emden)のような通商破壊艦が、その規模をはるかに上回る恐怖を与えました。これに対しアフリカでは、ある作戦がしぶとく長引き、東アフリカのドイツ軍はヨーロッパで砲声が止んだ後もなお抵抗を続けました。

第一次世界大戦は、連合国と中央同盟国の間で戦われた世界規模の戦争で、その主戦場はヨーロッパや中東だけでなく、アフリカやアジア太平洋地域にも及びました。このグローバルな広がりは、開戦直後から大きな意味を持ちます。ヨーロッパ列強は、植民地や石炭補給地、港湾施設、艦隊基地を世界各地に持っていました。ひとたび戦争が始まれば、これらの拠点は一気に無防備になります。

海外植民地は国威や軍事戦略の面では価値がありましたが、多くは孤立した存在でした。海上からの増援が望めなければ、近隣の連合国軍に奪われる危険性が高まります。同時に、すでに海外に展開していたドイツの巡洋艦は、通商路を襲撃し、通信を脅かし、イギリス海軍とその同盟国に広範な警戒と追跡を強いることができました。

DeepSwipeアプリのバナー

太平洋での急襲:ドイツの島嶼帝国はあっという間に崩壊

太平洋は、戦争全体の中でもっとも素早く勢力図が塗り替えられた地域の一つでした。1914年8月30日、ニュージーランド軍はドイツ領サモア(現在のサモア)を占領します。そのすぐ後、9月11日には、オーストラリア海軍・陸軍遠征軍がドイツ領ニューギニアの一部であるニューブリテン島に上陸しました。

日本もまた、ドイツ領への攻勢に動きます。日本はドイツに宣戦布告し、その後「南洋庁」の委任統治領となる太平洋のドイツ領を占領しました。また、中国・山東半島のドイツ租借地、とりわけ青島(当時は Tsingtao と表記)を攻撃対象としました。青島は中国におけるドイツ管理の港湾であり、その陥落は、ヨーロッパで始まった戦争がいかに素早く東アジアの勢力図を変えうるかを示す出来事でもありました。

事態はさらに拡大します。ウィーン政府が青島から巡洋艦「カイゼリン・エリザベート(SMS Kaiserin Elisabeth)」を撤退させることを拒んだため、日本はオーストリア=ハンガリー帝国にも宣戦布告しました。この艦は1914年11月、自沈させられます。自沈とは、艦船が敵の手に落ちるのを防ぐため、意図的に沈めることを指します。

こうして数か月のうちに、連合国軍は太平洋におけるドイツ領をすべて占領し、残ったのはわずかな通商破壊艦とニューギニアの一部の拠点だけになりました。この速さは際立っています。ヨーロッパでは戦線が固まり、塹壕戦の膠着状態に陥っていたのに対し、太平洋ではドイツの勢力は急速に瓦解していったのです。

青島と「条約港」の意味

青島が特別なのは、それが単なる島嶼領土ではなかったからです。青島は山東半島におけるドイツの「条約港」の一つでした。条約港とは、条約によって外国に開かれた港で、多くの場合、その国に特別な権利や支配権を与えるものでした。戦時には、こうした港は石炭補給地、海軍拠点、さらには帝国主義的影響力の象徴ともなり得ました。

青島の陥落が重要だったのは、ドイツが東アジアに持っていた拠点を一つ失い、同地域から正式なドイツ海軍基地が一掃される方向に動いたからです。これらの基地を失うと、太平洋やインド洋に展開していたドイツ艦隊はさらに孤立を深めることになりました。

海上に放たれた襲撃者:エムデンの恐るべき戦歴

こうした孤立した艦船の中でもっとも名をはせたのが、巡洋艦エムデン(SMS Emden)でした。開戦時、ドイツの巡洋艦は世界各地に分散配備されており、その一部は連合国の商船攻撃に投入されます。商船とは、物資や原材料を運ぶ貨物船のことで、それを襲うことは貿易を妨害し、敵に護衛任務や追跡のための艦艇を割かせる狙いがありました。

エムデンは、こうした通商破壊艦の中でもとりわけ成功した一隻でした。もともとエムデンは青島に駐留するドイツ東アジア艦隊の一部でしたが、最終的に包囲されるまでに、商船15隻の拿捕・撃沈に加え、ロシア巡洋艦1隻とフランス駆逐艦1隻を撃沈しています。なかでも1914年10月28日にペナン沖海戦でロシア巡洋艦ジェムチュグ(Zhemchug)を撃沈した戦闘は、その戦歴の中でもとくに劇的な場面でした。

こうした経緯から、エムデンはヨーロッパ外の戦争史において際立った存在となっています。戦局全体を左右したわけではないものの、通商破壊艦に期待された役割──不安を生み出し、通商に損害を与え、連合国に対応を強いる──をまさに体現していたのです。

記事では、通商を襲うドイツ巡洋艦は、最終的にはイギリス海軍によって組織的に追い詰められ、撃破されたと指摘されています。ただし、その前に少なからぬ被害を与えています。この経過は、主力艦同士の大艦隊決戦とは別の次元で展開された海戦の姿をよく表しています。単独行動の高速巡洋艦は短期間なら大きな脅威となり得ますが、連合国側の包囲網が狭まるにつれ、その選択肢は次第に失われていきました。

さらに広がる追跡戦:ドイツ艦隊と行き詰まる作戦

エムデンは、より大きな物語の一部にすぎませんでした。ドイツ東アジア艦隊の大部分は本国への帰還を試み、その途中の1914年11月、コロネル沖海戦でイギリス装甲巡洋艦2隻を撃沈します。しかし、その艦隊は12月のフォークランド沖海戦でほぼ壊滅しました。

ただ1隻、巡洋艦ドレスデン(SMS Dresden)が若干の支援船とともに逃れましたが、マス・ア・ティエラ沖海戦の後、これらも撃沈されるか、抑留(インターン)される結果となります。抑留とは、中立国などに拿捕され、戦闘行動を続けられない状態に置かれることを意味します。

この一連の流れは、ドイツの海外における海上戦がいかに短命だったかを示しています。ドイツ艦は一時的には劇的な戦果を挙げられましたが、安全な基地や長期的な補給の見通しがなければ、その存在自体が「時間切れ」を運命づけられていたのです。

アフリカの長い追撃戦:まったく異なる戦い方

太平洋での物語が、連合国による急速な征服であったとすれば、アフリカはその鮮烈な対照をなしています。戦争初期の戦闘のいくつかは、イギリス・フランス・ドイツの植民地軍同士によるものでした。8月6〜7日には、フランス・イギリス軍がドイツ保護領のトーゴランドとカメルーン(当時は Togoland, Kamerun と表記)に侵攻します。8月10日には、ドイツ領南西アフリカのドイツ軍が南アフリカを攻撃しました。この地域での戦闘は、その後も散発的でありながら激しく、戦争終結まで続きます。

しかし、もっとも注目すべき戦役はドイツ領東アフリカで展開されました。ここでは、パウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐率いるドイツ植民地軍がゲリラ戦を展開し、ヨーロッパで休戦が発効してからも2週間にわたって抵抗を続けたのです。

ゲリラ戦とは、機動力と奇襲、小規模な戦闘を重視し、大規模な会戦を避ける戦い方を指します。勢力で劣る側が正面から決戦を挑むのではなく、長期的に耐え、敵を攪乱し、消耗させることを狙います。広大な地域にわたる険しい地形と、長く脆弱な補給線という条件の下では、この戦い方が東アフリカ戦線を、ドイツ本国の戦局が崩壊した後もなお継続させる要因となりました。

パウル・フォン・レットウ=フォルベックと東アフリカの「持久戦」

パウル・フォン・レットウ=フォルベックがヨーロッパ以外で最も知られたドイツ軍司令官の一人になったのは、その粘り強い抵抗が理由です。重要なのは、彼が長く戦い続けたという事実だけでなく、その戦役がヨーロッパの戦争終結後まで続いたという点にあります。西部戦線での休戦は1918年11月11日に発効しましたが、レットウ=フォルベックの部隊が降伏したのは、その2週間後でした。

この時間差は、大陸をまたいで戦われた世界大戦の断片的な性格をよく物語っています。情報伝達や通信、軍事的現実は、必ずしも同じ速度では進行しませんでした。遠隔戦域では、本国の政変や休戦があっても、しばらくの間は戦闘が続き得たのです。

太平洋がすぐに陥落したのに、東アフリカはなぜ長引いたのか

これら二つの戦域の対比は、ヨーロッパ外の第一次世界大戦を考えるうえで非常に興味深い点です。

太平洋におけるドイツ領は、孤立した島々や小さな前哨基地が中心でした。連合国側は強力な海軍力を持ち、ニュージーランド、オーストラリア、日本といった近隣の戦力も利用できました。そのため、これらの拠点を守るのはきわめて難しく、港湾や島を押さえられてしまえば、長期抵抗の余地はほとんど残りませんでした。

一方の東アフリカは、事情がまったく異なります。戦闘は広大な陸上で行われ、ドイツ側司令官はゲリラ戦術を採用しました。つまり、この戦役は特定の大港湾や要塞を死守することに依存していなかったのです。その代わりに、連合国側がドイツ軍を追い続ける長期的な追撃戦となりました。

その結果、連合国が数か月で太平洋のドイツ領をすべて占領した一方で、東アフリカは「持久戦」の様相を呈することになりました。

塹壕のない場所にも広がっていた「世界大戦」

これらの海外戦線は、第一次世界大戦が塹壕戦だけの戦争ではなかったことを思い出させてくれます。それは同時に、植民地の征服、海上での追撃戦、点在する戦域での激しい局地戦の連続でもありました。ニュージーランドによるドイツ領サモアの占領、オーストラリア軍のニューブリテン上陸、日本による青島を含むドイツ領の占領、そしてドイツ通商破壊艦の撃破や孤立化──これらはすべて、ドイツの海外勢力を一気に排除しようとする連合国の動きの一部でした。

しかしアフリカは、その裏面を示しています。ここでは戦いは数か月の電撃戦では終わらず、東アフリカではレットウ=フォルベックの長期ゲリラ戦が、ヨーロッパでの休戦成立後まで続いたのです。

こうした出来事を合わせて見ると、世界大戦がいかに「不均一」な戦争だったかがわかります。ある地域では、帝国の領土が一夜にして別の国の手に渡る一方、別の地域では、地理的条件や補給の難しさ、現地司令官の判断によって戦闘が長期化しました。

見落とされがちな第一次世界大戦の「地図」

ヨーロッパ以外の戦域に目を向けると、第一次世界大戦の地図は大きく姿を変えます。太平洋ではドイツ植民地が急速に失われ、ドイツ巡洋艦は一時的に連合国の海上通商を脅かしました。アフリカ戦線では、多くの兵力が拘束され、険しい環境の中で戦いが長期化しました。

この広い視野から見ることで、この戦争が真の意味で「世界大戦」だった理由がより明確になります。戦いの舞台は、ベルダンやソンムといった有名な戦場だけでなく、サモア、ニューブリテン、青島、ペナン、トーゴランド、カメルーン、南西アフリカ、そして東アフリカにも広がっていました。戦争の手は地球規模に及び、多くの人々の記憶に残る塹壕とはまったく異なる場所でも、驚くべき物語が生まれていたのです。

World War I に関するストーリー

第一次世界大戦:世界大戦を引き起こした「一本の誤った曲がり角」

第一次世界大戦:世界大戦を引き起こした「一本の誤った曲がり角」

第一次世界大戦:海の勢力図を塗り替えたドレッドノート

第一次世界大戦:海の勢力図を塗り替えたドレッドノート

第一次世界大戦:西部戦線が塹壕戦になった理由

第一次世界大戦:西部戦線が塹壕戦になった理由

第一次世界大戦:セルビアの衝撃的な大金星

第一次世界大戦:セルビアの衝撃的な大金星

第一次世界大戦:戦争はいかにしてパンデミックを加速させたか

第一次世界大戦:戦争はいかにしてパンデミックを加速させたか

第一次世界大戦――帝国を消し去った戦争

第一次世界大戦――帝国を消し去った戦争

第一次世界大戦:見過ごされてきた巨大なインド軍

第一次世界大戦:見過ごされてきた巨大なインド軍

似ているストーリー

第二次世界大戦:ミッドウェー ― 暗号解読が戦局を変えた瞬間

第二次世界大戦:ミッドウェー ― 暗号解読が戦局を変えた瞬間

第二次世界大戦――はっきりした開戦日も終戦日もない戦争

第二次世界大戦――はっきりした開戦日も終戦日もない戦争

第二次世界大戦:工場か火力か――なぜ連合国は勝てたのか

第二次世界大戦:工場か火力か――なぜ連合国は勝てたのか

第二次世界大戦:占領は「収入源」だった

第二次世界大戦:占領は「収入源」だった

第二次世界大戦:空母の時代

第二次世界大戦:空母の時代

真珠湾攻撃:第二次世界大戦を変えた一撃

真珠湾攻撃:第二次世界大戦を変えた一撃

日本の歴史――軍部がハンドルを握ったとき

日本の歴史――軍部がハンドルを握ったとき

第二次世界大戦:電撃戦――イメージとは違う実像

第二次世界大戦:電撃戦――イメージとは違う実像

第二次世界大戦:勝利から冷戦へ

第二次世界大戦:勝利から冷戦へ

第二次世界大戦下のヨーロッパにおけるソ連軍の集団レイプ

第二次世界大戦下のヨーロッパにおけるソ連軍の集団レイプ

第二次世界大戦 日本本土空襲:ドゥーリットル空襲

第二次世界大戦 日本本土空襲:ドゥーリットル空襲

真珠湾攻撃:日本はなぜ攻撃したのか

真珠湾攻撃:日本はなぜ攻撃したのか

塹壕を越えて世界の物語へ航海しよう──DeepSwipe をダウンロードして、スワイプ一つで歴史の奥深さを体験しよう。