小野田寛郎:1974年まで戦い続けた第二次世界大戦の兵士

第二次世界大戦が終わったのは1945年でした。小野田寛郎が降伏したのは、1974年3月10日のことです。

日本の降伏から約29年にわたり、日本陸軍の将校だった小野田はフィリピンのルバング島で任務を続けました。降伏を伝える発表を受け入れず、家族からの手紙も信用せず、最終的には、かつての上官本人から任務解除を言い渡されなければならないと主張しました。

これは驚くべき生存の物語ですが、無害な冒険談ではありません。ルバング島の人々にとって、小野田が長年潜伏したことで、食料の盗難や収穫物の焼き払い、武装した住民との衝突、民間人殺害の疑いが生じました。彼の物語を理解するには、降伏を拒んだ兵士だけでなく、その行動の影響を受けながら暮らした地域社会にも目を向ける必要があります。

小野田寛郎は1922年に日本で生まれ、1942年に大日本帝国陸軍に徴兵されました。陸軍中野学校二俣分校で情報将校として訓練を受け、ゲリラ戦を学びました。大軍同士が正面から戦うのではなく、小規模な襲撃などの作戦を通じて戦う方法です。

1944年12月26日、小野田は日本が占領していたフィリピンのルバング島へ派遣されました。任務には、連合軍の侵攻に備えて島の飛行場と港の桟橋を破壊することや、上陸しようとする敵の航空機や船舶を攻撃することが含まれていました。

命令では、降伏も自決も明確に禁じられていました。

しかし、ルバング島の上級将校たちは、小野田が計画していた破壊工作を実行させませんでした。1945年2月28日、アメリカ軍とフィリピンの抵抗勢力が上陸し、島を制圧しました。やがて小野田は、赤津勇一、島田庄一、小塚金七の3人とともに山中へ退きました。

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なぜ戦争が終わったと信じなかったのか?

小野田たちは1945年10月、降伏を伝える発表を目にしました。島民が残したビラには、こう書かれていました。「8月15日に戦争は終わった。山から下りてこい!」

しかし彼らはこれを連合軍のプロパガンダ、つまり自分たちをだますための情報だと考えて退けました。本当に戦争が終わっていたなら、今も銃撃されるはずがないと判断したのです。

同年後半には、山下奉文将軍からの降伏命令を記したビラが航空機から投下されました。小野田たちは内容を確かめたものの、これも本物ではないと結論づけました。

説得の試みはその後も続きました。日本当局は捜索隊を派遣し、ビラをまき、ラジオ放送を行って、小野田に戦闘をやめるよう呼びかけました。1952年2月には、家族からの手紙や写真も島に投下されました。それさえも、彼らは策略だとして受け入れませんでした。

ただし、小野田は戦争が終わったことを知らなかったという、よく知られた説明には異論があります。日本研究者のベアトリス・トレファルトはこの主張に疑問を呈し、小野田が新聞を入手でき、トランジスタラジオも持っていたことを指摘しています。彼は外部の情報から完全に隔絶された状況にいたわけではありませんでした。

生き延びるためにルバング島が払った代償

小野田たちはバナナやココナツ、盗んだ米、牛などを食料にして生き延びました。また、地元住民や警察とも銃撃戦を繰り返しました。

仲間は次第に減っていきました。赤津は1949年9月に離脱し、1950年3月にフィリピン軍に投降しました。残った兵士たちは彼の離脱を裏切りと受け止め、それまで以上に警戒するようになりました。

島田は1953年、地元の漁師たちとの銃撃戦で負傷しました。小野田は彼の看病をしましたが、1954年5月、訓練中のフィリピン陸軍山岳部隊が兵士たちと遭遇し、島田は命を落としました。

小塚は1972年10月19日まで小野田と行動をともにしましたが、警察の急襲で射殺されました。2人は、日本軍に任務を続けていることを知らせる合図にしようと、村人が収穫した米の山に火を放っていました。小塚の死後、小野田はひとりになりました。

後に村人たちは、小野田と仲間たちが民間人を最大30人殺害したと訴えました。小野田の物語が日本では称賛を呼ぶ一方、ルバング島では苦痛の記憶を残した理由を理解するうえで、こうした訴えは欠かせません。

小野田を見つけた冒険家

1974年2月20日、日本人冒険家の鈴木紀夫は、ルバング島で4日間捜索した末に小野田と出会いました。

鈴木は友人たちに、「小野田少尉、パンダ、雪男をこの順番で探している」と話していました。兵士との出会いをきっかけに2人の間には友情が芽生えましたが、それですぐに小野田が降伏したわけではありません。

小野田は、最後の命令を与えた上官である谷口義美少佐から命令を受ける必要があると主張しました。

鈴木は、2人が会った証拠となる写真を持って日本へ戻りました。政府は谷口の所在を突き止めました。谷口は戦後、書店を営んでいました。1974年3月9日、彼は鈴木とともにルバング島へ渡り、ジャングルで小野田と面会して、正式に任務を解除しました。

ついに任務を終わらせた降伏

小野田は1974年3月10日、フィリピン軍に投降しました。翌日、マニラのマラカニアン宮殿で正式な式典が行われ、フィリピンのフェルディナンド・マルコス大統領は、潜伏中に犯した罪について小野田に全面恩赦を与えました。

小野田は、刀、使用可能な九九式小銃、弾薬500発、手榴弾数個を引き渡しました。

彼の潜伏期間は、日本の降伏から数えて28年6カ月8日、合計1万416日でした。彼は最後期まで残った日本兵のひとりでしたが、最後のひとりではありません。中村輝夫は1974年12月までインドネシアで発見されずにいました。

英雄としての歓迎、そして残された議論

小野田は日本で英雄として歓迎され、1974年に自伝『わがルバン島の30年戦争』を出版しました。その後ブラジルで牧場を営み、1984年に日本へ戻ると、教育キャンプを設立しました。

しかし、彼の語った内容に異論がなかったわけではありません。1976年、自伝のゴーストライターを務めた津田信は、それが純粋な個人の回想ではなく、綿密に構成された物語だったと述べました。また、津田は小野田が戦争の終結を知っていたとも主張しました。

1996年に小野田がルバング島を訪れた際、妻は小野田の名義で1万ドルの奨学金を寄付していました。それでも、犠牲者とされる人々の遺族約50人が抗議しました。町議会は、小野田が殺害したとされる7人の遺族への補償を求めました。

小野田は2014年、91歳で亡くなりました。彼の物語が印象深いのは、1974年まで戦い続けたからというだけではありません。同じ数十年の出来事が、ある人々には驚異的な忍耐の物語として、また別の人々には暴力と喪失が長く続いた歴史として記憶されているからです。

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