南京事件は、日中戦争(第二次世界大戦期の中日戦争)の中でも、最も痛ましく、そして激しく議論されてきた出来事の一つです。暴力そのものが凄惨だっただけでなく、虐殺が収まったあとも闘いは終わりませんでした。その後に続いたのは、証拠・責任・記憶をめぐる「第二の戦い」でした。
そのため、この事件はいまなお歴史・戦争・ナショナル・アイデンティティを語るうえで強い意味を持ち続けています。戦犯法廷が開かれ、資料が消え、証人が証言し、後の世代は何が起きたのか、どれだけの人が殺されたのか、誰が責任を負うべきなのかをめぐって激しく論争してきました。結果として、南京は戦時の大虐殺としてだけでなく、社会が自らの過去とどう向き合うのか――あるいは向き合うことを拒むのか――を示す一つの「ケーススタディ」としても記憶されています。
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虐殺後――裁判、処罰、そして免責
日本の降伏後、南京での出来事に関与したとされる主要な人物の一部は戦争犯罪で裁かれました。戦争犯罪とは、捕虜や民間人の殺害など、戦争法規・慣習に対する重大な違反行為を指します。
南京攻略戦に関与した高級指揮官の一人である松井石根大将は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に起訴されました。彼は、残虐行為を阻止するための有効な措置を取らなかった責任を問われ有罪となりました。広田弘毅もまた有罪判決を受け、両名は1948年12月23日に死刑を宣告され、絞首刑に処せられました。
別個の法廷で裁かれた人物もいます。谷寿夫は中国の南京戦犯裁判で訴追され、有罪判決を受け、死刑を宣告されて1947年に処刑されました。戦時中の新聞で報じられた「百人斬り競争」で知られる向井敏明・野田毅両中尉も、田中軍吉とともに1948年に裁かれ、有罪とされて処刑されました。
しかし、誰もが訴追されたわけではありません。南京攻略戦のさなかに一時的な指揮官として任ぜられていた朝香宮鳩彦王は、皇族であったことから免責特権を与えられ、裁かれることはありませんでした。免責とは、訴追から法的に保護されることを意味します。彼の扱いは、戦後の責任追及をめぐる最も論争的な問題の一つとして残っています。
この問題がとりわけ重く受け止められているのは、朝香宮が「俘虜をことごとく殺すべし」という趣旨の命令と結び付けられているからです。この命令は、戦闘中および戦闘後に行われた犯罪行為に事実上のお墨付きを与えるものでした。彼が直接署名したとする証言もあれば、参謀が彼の権限にもとづいて命令を発したとする説もあります。詳細には議論がありますが、いずれにせよ彼は現地で最高位の指揮官でありながら虐殺を止めることはありませんでした。
南京事件をめぐる論争がこれほど長く続いている大きな理由の一つは、決定的な証拠の多くが破棄されたり隠されたりしたことにあります。
1945年8月の日本による停戦表明から、米軍が本格的に進駐するまでの間、日本の軍・官庁は組織的に公文書を焼却しました。東アジアや太平洋の各部隊に対し、戦争犯罪に関わる証拠を焼却するよう命令が出されました。後年の研究で引用された推計では、日本の戦時記録の約7割が破壊されたとされています。なかには、破棄を命じられた資料のうち生き残ったのは0.1%にも満たなかったと主張する研究者もいます。
これは重大な意味を持ちます。公文書館の資料は歴史の「証跡」だからです。そこには軍の命令、戦闘報告、日記、電報、公的記録、内部文書などが含まれます。こうした記録が焼却・隠匿されると、特に犠牲者数の詳細や指揮系統など、出来事を精密に再構成することが難しくなります。
南京事件の場合、こうした大量破棄により、戦後に連合国側が押収できた資料は大きく減少しました。南京攻略作戦に直接関わる重要文書の多くは長年にわたり表に出ず、一部はかなり後になってからようやく公刊されました。そこには軍文書の集成や、指揮官の日記の抜粋などが含まれます。
こうした資料の欠落は、後の論争の土壌をつくりました。史料が不完全であれば、否認や矮小化、政治的思惑に基づく再解釈が行いやすくなるからです。
それでも多くのことが分かるのはなぜか
大量の記録が破棄されたにもかかわらず、南京事件の歴史そのものが消え去ることはありませんでした。それは、多様な立場の証人が例外的なほど幅広い証拠を残していたからです。
南京に居住していた外国人たちは、日記を書き、抗議文を提出し、書簡を送り、法廷で証言しました。南京安全区国際委員会のメンバーであるジョン・ラーベ、ルイス・スマイス、ジョージ・フィッチ、ジェームズ・マッカラム、ロバート・ウィルソンらは、自ら目にした光景を記録しました。彼らの記録には、殺害、強姦、略奪、放火、そして市民が常にさらされていた恐怖が詳細に綴られています。
この南京安全区そのものが、事件の物語の中で最も重要な要素の一つとなりました。安全区は、民間人を保護しようと外国人が組織した区域です。委員会を率いたのは、ドイツ人実業家のジョン・ラーベでした。この安全区は、少なくとも20万人の命を救ったと評価されています。しかしそれにもかかわらず、日本兵が安全区に侵入して男性を連行し、女性を暴行し、さらなる犯罪を犯すという侵害行為が繰り返されました。
南京安全区内の金陵女子文理学院で働いていたキリスト教宣教師ミニー・ヴォートリンも、強烈な証言を日記という形で残しました。彼女は数千人もの女性避難民を保護し、広範囲に及ぶ暴力の実態を記録しました。
視覚的な証拠も存在します。アメリカ人宣教師ジョン・マギーは16ミリフィルムで撮影を行い、写真も残しました。デンマーク人の警備員ベルンハルト・アルプ・シンドベリは、セメント工場に設けられた即席の難民キャンプを運営する傍ら、虐殺と破壊の凄惨な写真を撮影し、未現像フィルムのまま中国国外へ持ち出しました。
同じくらい重要なのが、日本側から出てきた証拠です。日本軍の兵士や衛生兵が戦時中に書いた日記が、その後になって公開されました。1994年には、小野賢二が収集した約20冊の従軍日記がまとめて出版されています。旧日本軍将校らの親睦団体である「偕行社」は、1980年代に元兵士たちへ聞き取り調査を行いました。その結果は虐殺を否定するどころか、事件の存在を裏付けるものでした。多くの元兵士が自らの加害行為を含めて証言し、偕行社は殺害行為を「痛恨すべき蛮行」と表現して謝罪文を公表しました。
こうした証言は、旧日本陸軍に直接関わった当事者から出てきた点で、特に重要です。退役軍人の団体は元軍人本人たちで構成される組織であり、その調査結果は歴史論争において大きな重みを持ちました。
犠牲者数をめぐる論争と、その爆発的な政治性
南京事件で殺害された人数については、現在も見解の一致をみていません。しかし、その論争は「膨大な犠牲が出た」という点ではおおむね共通する幅のなかで行われています。
東京裁判は、南京とその周辺で占領開始後6週間のあいだに、20万人以上の民間人と捕虜が殺害されたと推計しました。この数字を妥当と支持する研究者は少なくありません。学術的な推計としてよく引用される範囲は、おおよそ10万〜20万人です。
これより低い数字も高い数字も存在します。ジョン・ラーベは、城壁内だけで5〜6万人の民間人が殺害されたと推定しましたが、その後の指摘では、彼が直接目にすることのできなかった地域も多かったため、過少評価だった可能性が高いとされています。一方で、南京市街を超えた周辺地域を広く含めると、犠牲者数はさらに増えるとする推計もあります。
ここで重要になるのが「定義」です。歴史家たちは、犠牲者数だけでなく、どの地域・どの期間を「南京事件」と呼ぶのかという点でも意見を異にしています。1937年12月13日以降の約6週間、南京市とその近郊に限定して考える研究者もいれば、周辺農村部も含め、1937年12月初頭から1938年3月末までに行われた一連の残虐行為全体を含めるべきだと主張する研究者もいます。
定義を広げれば、数字も変わります。暴力は市中心部にとどまらず、周辺の県域でも大規模な虐殺・強姦・放火・処刑が行われていたからです。
たとえ正確な数字が決めきれなくとも、この問題が政治的に極めて敏感なままである理由は、単なる「数の問題」にとどまりません。否認や矮小化が、記憶のあり方そのものを形作ってきたからです。「10万人か、20万人か、30万人か」という議論が、純粋な史料批判ではなく、罪の意識、歴史の正統性、国のイメージをめぐる闘いへとすり替わることが多いのです。
記憶・否認・ナショナル・アイデンティティ
南京事件をめぐる闘いは、法廷や歴史書の世界だけにとどまりませんでした。中国と日本、それぞれの国のナショナル・アイデンティティをめぐる政治とも深く結びついていきました。
日本では、この事件をどう捉えるかをめぐって世論が長く分断されてきました。戦後裁判の認定を受け入れ、犠牲者は少なくとも20万人、強姦は2万件前後に上るとする研究者がいる一方で、裁判を「勝者による裁き」として否定し、虐殺の規模を小さく見積もったり、そもそもの発生を疑問視したりする立場も存在します。歴史修正主義者や一部政治家は、南京事件を否定、あるいは過小評価してきました。
歴史修正主義とは、既に確立された証拠に異議を唱え、その解釈を塗り替えようとする姿勢を指します。南京事件に関してこの言葉が用いられるとき、多くの場合は虐殺の規模を引き下げたり、証拠が示す実態に疑問を投げかけたりする動きを意味します。
中国では、南京事件の記憶は、特に1980年代以降、公共の追悼や国民的な歴史意識の中心的な要素となっていきました。記念館が建設され、犠牲者の名簿が公表され、2014年には12月13日が「南京大虐殺死難者国家公祭日」として制定されました。2015年には、南京事件に関する資料がユネスコの「世界の記憶」登録簿に記録されています。
南京事件は、日中関係においても大きな争点となってきました。日中の貿易は巨大な規模に成長しましたが、相互不信は根強く残っています。その一因として、否認や矮小化がいまなお公的発言の中に見られるかぎり、和解は未完のままだという感覚があることが挙げられます。
こうして南京事件をめぐる論争は、出来事そのものを超えた問題へと広がっていきました。それは、一国が過去の加害行為を認めるべきかどうか、歴史的責任をどう記憶すべきか、そして現代国家がどのようなアイデンティティを世界に示そうとするのかをめぐる闘いへと変質していったのです。
なぜ記憶はいまも燃え続けるのか
南京事件がいまなお強い政治性を帯びているのは、歴史記録が「圧倒的であると同時に不完全」だからです。圧倒的というのは、目撃証言、日記、埋葬記録、写真、書簡、映画、そして自白や証言が、集団殺害・強姦・略奪・放火の存在を一斉に指し示しているからです。不完全というのは、公的な文書の大部分が破壊され、犠牲者数などの細部を完全に再構成することはもはや不可能だからです。
この緊張関係が、果てしない論争の余地を生み出します。しかし同時に、それこそが南京事件がいまなお激しい関心と感情を呼び起こす理由でもあります。議論の対象になっているのは、1937年や1938年に何が起きたかだけではありません。社会が後から加害の歴史とどう向き合うのか――誰を裁き、誰を庇い、どんな証拠を残し、誰が過去を定義するのか――という問題も問われているのです。
そういう意味で、南京事件をめぐる「記憶の闘い」は終わりませんでした。それ自体が、歴史の一部になったのです。













