南京虐殺──戦いが終わってから、恐怖はさらに広がった

1937年12月、南京が陥落しても、市内に平和が訪れることはなかった。むしろ、殺害・強姦・略奪・放火が長期にわたって続き、中華民国の旧首都は、歴史上最悪級の戦時残虐行為の舞台となった。

南京事件(南京大虐殺)は、第二次上海事変に続く南京攻略戦の後に起きた。日本軍は激しい戦闘の末、1937年12月13日に南京へ突入した。その後に続いたのは、一時的な暴力の爆発ではなく、中国人一般市民や捕虜、さらには兵士と疑われた多くの男性に対して、歯止めのない残虐行為が続く時期だった。

都市が陥落すれば、戦闘の最悪の段階は終わると考えがちだ。しかし南京では、まったく逆のことが起きた。組織だった中国軍の防衛が崩壊したことで戦闘自体は終わったものの、市内の人びとに対する暴力はそこから急激に激化した。

日本軍はすでに、上海から南京へ進軍する途上で数々の残虐行為を行っていた。行軍路にあった村や町は攻撃され、多くの民間人が殺害され、家々は破壊され、強姦や拷問も報告されている。南京に到着した時点で、恐怖による支配のパターンはすでに確立されていた。

日本軍が市内に突入すると、虐殺は一気にエスカレートした。12月13日以降の最初の数週間がもっとも激しかったが、暴力がすぐに止んだわけではない。伝統的な記述では南京事件の期間は約6週間とされることが多いが、多くの歴史家は、南京周辺地域での残虐行為が1938年3月下旬まで続いたと述べている。つまり、恐怖は軍事的勝利の瞬間をはるかに超えて続いたことになる。

犠牲者の多くは「戦闘員」ではなかった

南京事件でとくに重要なのは、犠牲者が兵士に限られなかったという事実である。

多くの中国人捕虜が、大量に処刑された。本来、戦時国際法では、捕虜は保護されるべき存在である。しかし南京では、捕虜は集められて処刑されることが多かった。日本軍はまた、明らかに民間人であっても、軍務経験がありそうな年齢の男性を標的にした。「掃蕩作戦」と称して、兵士たちは恣意的な基準で「元兵士らしく見える」者を選び出した。手のマメ、姿勢のよさ、「鋭い目つき」、さらには体格などが根拠とされた。

そのため、人力車夫、日雇い労働者、大工、警察官、消防士、清掃作業員、埋葬人夫など、多くの男性が疑いだけで連行された。彼らは集団で連れ出され、そのまま戻ってくることはなかったという事例が数多く残っている。

虐殺の犠牲となったのは、女性や子ども、高齢者も同様だった。一般市民は、自宅や避難区内、路上、農村部などあらゆる場所で殺害された。同時代の目撃者たちは、市内の至るところに死体が転がっていたと証言しており、病院は数週間にわたって銃創や銃剣傷の患者であふれ返っていた。

大規模な集団処刑

多くの殺害は、個々の兵士による場当たり的な犯行にとどまらず、短時間で多数を殺害することを目的とした組織的な集団処刑として行われた。

代表的な方法のひとつは、捕虜の手を縛り、長江(揚子江)の川岸まで行進させ、横一列に並ばせて機関銃で一斉射撃を加えるというものだった。生き残った者は銃剣や拳銃でとどめを刺された。遺体は焼かれ、川へ投げ込まれたり、集団墓地に埋められたりしたため、後年の正確な犠牲者数の把握をいっそう困難にした。

とくに悪名高い事件としては、幕府山付近での虐殺がある。日本軍は1万7千〜2万人とされる中国人捕虜を川岸に連行し、殺害した。また「草紐峡(ストロー・ストリング・ゴージ)虐殺」と呼ばれる事件では、捕虜の両手を縛り、縦隊に分けて銃撃したとされる。ほかの場所では、首をはねる、銃剣の刺突練習に使う、生きたまま焼き殺すといった形での殺害も行われた。

市門周辺やその近くでも虐殺が起きている。太平門付近では、約1,300人の中国軍兵士と民間人が集められ、殺害されたうえで焼かれた。南京北部の城門付近では、死体の山が目撃されたという証言が残る。ある記録では、機関銃掃射によって、わずか10分ほどで約200人の中国人が殺されたとされる。

これらは、戦闘の最中に戦場で生じた戦死とはまったく性質の異なるものである。多くの犠牲者はすでに降伏していたか捕虜となっていた、あるいは何の証拠もないまま非戦闘員である市民が「容疑」をかけられて殺害されたのだった。

性暴力は虐殺の中心的要素だった

強姦は、南京事件を特徴づける犯罪のひとつであり、その規模、組織性、残虐性はいずれも際立っている。

極東国際軍事裁判(東京裁判)は、日本軍による南京占領後最初の1か月間に、約2万件の強姦があったと推計した。これを上回る数字を示す推計も存在する。被害に遭ったのはあらゆる年齢層の女性・少女であり、乳児から高齢女性に至るまで含まれていた。多くは集団強姦され、その後に殺害された。目撃証言では、強姦の後に殺害、死体の損壊、あるいはその両方が行われた事例が繰り返し記録されている。

日本兵は家々を一軒ずつ回って少女や女性を捜し出した。安全区内の難民キャンプや学校も襲撃対象となった。金陵女子文理学院で数千人の女性を匿ったミニー・ヴォートリンは、避難民の恐怖と絶え間ない性暴力の脅威を日記に書き残している。ジョン・ラーベは、街中で「耳に入るのは強姦の話ばかりだった」と記し、ジェームズ・マッカラム牧師は、昼夜を問わず強姦が続き、一時期は「1晩に少なくとも1,000件」に上ったと推定している。

暴力にはしばしば虐待的・サディスティックな要素が伴った。被害者は強姦の後、銃剣や竹槍で刺されることがあり、妊婦も攻撃対象となった。子どもに対する暴力を無理やり見せつけられた後、その母親が襲われるといった事例も記録されている。また、中国人男性や10代の少年が性的暴行の被害を受けたケースもあったとされる。

放火と略奪、都市機能の破壊

殺害と並行して、大規模な略奪と放火も行われた。日本兵は市内の建物へ次々と押し入り、将校の目前で堂々と物資を持ち去った。市民は略奪品の運搬を強制されることもあった。商店や民家、新しく建てられた官庁建物は次々と荒らされた。

市内の約3分の1が火災で失われたとされる。この破壊は偶発的なものではなく、多くは意図的な放火だったと目撃者は証言している。生存者は、広い地域一帯が焦土と化した様子を見ている。放火は、暴行や略奪を生き延びた人びとからも住まいを奪い、恐怖にさらに拍車をかけた。

遺体の処理方法も、歴史的検証を困難にしている一因である。死体は焼かれ、長江に投げ込まれ、あるいは集団墓地に埋められたため、正確な犠牲者数は今なお論争の的となっている。

南京安全区と救援に尽力した人びと

こうした暴力のさなかにも、市民を守ろうとした外国人グループが存在した。南京国際安全区委員会は、市西部に避難区を設けた。この委員会を率いたのが、ドイツ人実業家ジョン・ラーベである。

安全区は少なくとも20万人の命を救ったとされる。多くの市民を一か所に集中させ、軍隊に対して「ここには手を出さないように」と説得を試みたことで、一定の安全が確保された。ただし完全な治外法権ではなく、日本兵が侵入し、男性を連行して処刑したり、女性を連れ去って強姦したりする事件は繰り返し起きた。

中でも際立つ人道的活動を行った人物として、ミニー・ヴォートリンがいる。彼女は金陵女子文理学院に最大1万人の女性をかくまった。ベルンハルト・アルプ・シンドベルクと、そのドイツ人同僚カール・ギュンターは、セメント工場を難民キャンプとして開放し、およそ6千〜1万人の市民に避難場所と医療を提供した。ジョン・メイジーは映画や写真で虐殺の様子を記録し、ほかの外国人たちも日記や宣誓供述書、手紙などを残しており、これらは後の重要な証拠資料となった。

なぜ犠牲者数が論争の的なのか

南京事件に関する数字は今も議論が続いているが、その規模が甚大であったという点について大きな異論はない。

多くの研究者は、極東国際軍事裁判が示した「20万人以上」という犠牲者数の推計を支持している。近年の推計では、犠牲者数を10万〜20万人の範囲に置くものが一般的である。一方で、南京市内だけを対象とした場合は4万人程度、より広範な地域を含めると34万人以上とする試算もある。強姦被害についても、4千件から8万件超まで幅があり、約2万件という数字がしばしば引用される。

数字の確定を難しくしている一因は、日本側による記録の意図的破棄や遺体処理の方法、さらに「南京事件」を時間的・地理的にどこまで含めるかという定義の違いにある。市壁内部と、陥落後6週間ほどを中心に計算する立場もあれば、周辺の県を含め、1937年12月上旬から1938年3月下旬までの暴力を対象とする立場もある。

こうした論争にもかかわらず、ひとつの大枠の結論は揺らいでいない。南京事件は、桁外れの規模で行われた大量殺人であったということである。

戦後と記憶

戦後、松井石根大将をはじめとする複数の指揮官が戦犯として裁かれ、死刑が執行された。東京裁判は、松井が最終的な責任者であり、「犯罪の狂乱」を止めるために有効な措置を取らなかったと認定している。一方、「捕虜を一人も残すな」という趣旨の命令と結びつけられることの多い臨時司令官・朝香宮鳩彦王は、免責特権によって訴追されなかった。

南京事件は今もなお、日中関係におけるきわめて敏感で対立的な問題である。一部の日本のナショナリストや歴史修正主義者は事件を否定または矮小化しているが、日本国内の多くの研究者は東京裁判の認定を支持し、大規模な残虐行為が存在したことを受け入れている。

南京が記憶され続けているのは、犠牲者があまりにも多かったからだけではない。すでに軍事的な勝利が確定した後も暴力が続いたことが、いっそう強い印象を残しているのである。城が陥ちても、殺戮は終わらなかった。まさにそこに、この出来事の底知れぬ不気味さがある。最大の苦しみは、戦いそのものではなく、その後の日々と週のあいだに訪れたのだった。

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