ペルシアによる第二次ギリシア遠征のなかでアテネが破壊されたとき、失われたのは城壁や家屋、神殿だけではありませんでした。都市に満ちていた美術品や聖なる奉納物も大きな被害を受けました。その場で粉々に砕かれたものもあれば、ペルシア帝国の各地へ運び去られたものもありました。何世紀も後、地中に埋もれていたその破片が発見され、何が起きたのかを物語ることになります。
この破壊がもたらしたのは、最も痛ましい種類の歴史証拠のひとつ――傷ついた芸術作品でした。焼け落ちた建物は再建できますが、砕かれた像や奪われた記念碑は、征服の衝撃をより生々しく伝え続けます。アテネでは、廃墟そのものが暴力と記憶、そしてやがて訪れる再生の記録となったのです。
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ペルシアの攻撃にさらされたアテネ
アテネが攻撃されたのは紀元前480年と翌479年の2度で、いずれもペルシアによる第二次ギリシア遠征の最中のことでした。テルモピュライの戦いの後、中央ギリシアの多くはペルシア軍にさらされることになります。アテネ人はギリシア艦隊の助けを得て住民をサラミス島へと避難させ、一方でペロポネソス諸都市はさらに南のコリントス地峡の防衛に力を注ぎました。
その結果、アテネはほぼ無防備のまま残されました。
紀元前480年9月、ペルシア軍が最初にアテネを占領したとき、少数のアテネ人がアクロポリスに立てこもって抵抗していました。アクロポリスは都市の高台に築かれた要害であり、主要な神殿や聖所が集まる場所でもありました。やがて彼らは敗れ、クセルクセスは都市を焼き払うよう命じます。アクロポリスは徹底的に破壊され、古アテナ神殿や旧パルテノン神殿などの主要な宗教施設も失われました。
その後、ペルシア軍はいったんアッティカ地方から撤退しましたが、危機が去ったわけではありませんでした。紀元前479年、マルドニオスが再び南下し、アテネ人をギリシア側同盟から離反させようと説得を試みますが失敗します。アテネ人は再度避難し、ペルシア軍は二度目のアテネ占領を行いました。この二回目の破壊はさらに徹底しており、残っていた建物は焼かれるか、打ち壊されるか、取り壊されていきました。
アテネの破壊は、美術品の破壊と略奪も意味していました。古代ギリシア世界の神殿は空っぽの殻ではなく、奉納品や彫像、碑文、政治的・宗教的意味を持つさまざまな品々で満たされていました。ペルシア軍が神殿を略奪し、アクロポリスを焼き討ちしたとき、彼らが破壊していたのは単なる建築物ではありません。都市の象徴的な「心臓部」を標的にしていたのです。
なかでも印象的な例が、ハルモディオスとアリストゲイトンの青銅群像です。この作品はクセルクセスによって持ち去られました。その経緯は、美術品が戦利品として扱われ、もとの都市から遠く離れた地へ運ばれていくありさまを鮮やかに伝えています。
青銅像はとりわけ価値が高いものでした。青銅は合金であり、大型の青銅記念像には高度な技術と高価な素材が必要でした。そうした像を奪い去る行為は、単なる盗みではなく、帝国の権力を誇示する行為でもあったのです。
ハルモディオスとアリストゲイトン像
アテネから持ち去られた品々の中に、ハルモディオスとアリストゲイトンの青銅像がありました。この像は運び出されたのち、最終的にスサで見つかっています。
スサはペルシア帝国の主要都市のひとつでした。この像がそこで確認された事実は、アテネの財宝が都市陥落後どれほど遠くまで運ばれたかを物語っています。かつてアテネに属していた品々は、やがてアケメネス朝帝国の世界に組み込まれていったのです。
この像はしかし、永遠に失われたわけではありませんでした。アレクサンドロス大王の遠征戦争のさなか、スサで発見され、約2世紀ぶりにギリシアへと返還されます。アテネからペルシアへ、そして再びギリシアへというこの長い旅路は、戦争によって故地を離れ、のちに取り戻された遺物のなかでも、とりわけ記憶に残る一例となっています。
像が戻されたことは、ペルシアによる破壊の記憶が世代を超えて残り続けたことも示しています。アテネへの攻撃は、城壁が再建されたからといってすぐに忘れ去られた短い事件ではありませんでした。ずっと後の時代まで、ギリシア人の歴史意識の一部であり続けたのです。
ペルゼルシュット――「ペルシアの瓦礫」
すべての美術品が持ち去られたわけではありません。多くは、その場で単に打ち砕かれました。
後世の考古学者たちは、アクロポリスから多数の損壊した彫像や破片を発掘しました。これらはドイツ語で「ペルゼルシュット(Perserschutt)」と呼ばれるようになります。「ペルシアの瓦礫」「ペルシアの残骸」といった意味で、アテネ破壊によって生じ、のちの発掘で見つかった大量の破壊物を指す呼称です。
これは都市の「略奪」を物語る、極めて力強い考古学的痕跡のひとつです。文字史料だけに頼るのではなく、石となって残された物理的な爪痕――荒らされた像、砕けた身体、失われた頭部、瓦礫に埋もれた奉納品――を研究者は自らの目で確認できるのです。
ペルゼルシュットが重要なのは、破局の瞬間をそのまま封じ込めているからです。そこには、抽象的な戦史ではなく、破壊された聖なる・芸術的対象としての征服の姿が刻み込まれています。大地そのものが証拠を抱きこんでいたと言えるでしょう。
カリマコスのニケ像
こうした破壊の中から見つかった彫像のひとつに、カリマコスのニケ像があります。この像は、マラトンの戦いにおけるカリマコスとギリシア側の勝利を記念して、旧パルテノン神殿のそばに建てられていました。
ニケは勝利の人格化であり、この像では有翼の女性として、銘文の刻まれた円柱の頂に立つ姿で表現されています。記念碑には、古代彫刻で珍重されたパロス島産の大理石(パリアン・マーブル)が用いられ、その高さは4.68メートルに達していました。
しかしこの像は、ペルシア軍によって深刻な損傷を受けました。頭部や胴体・両手の一部は発見されないままです。
失われた部分そのものも、ひとつの物語を語っています。考古学は、残っているものだけでなく、欠けているものを通じても過去を読み解こうとします。像が断片的にしか残らなかった場合、その断ち切れた痕が歴史の証拠となるのです。このケースでは、その損傷がアクロポリスに対するペルシア軍の暴力を物理的に映し出しています。
壊れた芸術が語る歴史の記憶
マルドニオスが戦死したプラタイアイの戦いでペルシア軍が敗れると、アテネは最終的に奪還されました。アテネ人はそこから街の再建という巨大な課題に直面します。テミストクレスが復興事業、とりわけ防御施設の修復において重要な役割を果たしました。破壊後まもなく築かれた新たな城壁は、のちに「テミストクレスの城壁」と呼ばれ、再侵攻からアテネを守ることが期待されました。
再建には、スポリア(spolia)と呼ばれる再利用建材も多く用いられました。旧パルテノン神殿や古アテナ神殿の遺構がアクロポリスの城壁に組み込まれ、その一部は現在でもアクロポリス北壁に見ることができます。
つまり都市は、破壊された遺構そのものを材料として再び自らを築き上げたのです。ある意味でアテネは、自らのトラウマを石に刻んで保存したと言えます。損壊した神殿は新たな防御施設の一部となり、壊れた彫像は地中に眠り続け、考古学によって初めて再び姿を現しました。
いまも失われた遺物が重要であり続ける理由
アテネ破壊で失われた遺物の物語は、単なる略奪の話にとどまりません。戦争が文明の象徴や聖地、公共の記憶そのものを標的にしうることを示しています。スサで見つかった青銅像、粉々になった大理石のニケ像、地中に眠っていたペルゼルシュットの瓦礫の塊――これらはいずれも、アテネの陥落が、炎だけでなく芸術を通しても経験された出来事であったことを語っています。
これらの品々の意味は、紀元前479年をはるかに過ぎても失われることはありませんでした。いくつかは再建された城壁の中に組み込まれて目に見える形で残り、いくつかは何世紀ものあいだ地中に隠れ続けました。ハルモディオスとアリストゲイトン像のように、驚くべき「帰還の旅」を遂げたものもあります。
断片になっても、アテネは語り続けました。壊れた芸術作品は、破壊と生存、そしてふたたび立ち上がろうとする都市の意志を、静かにしかし確かに伝え続けているのです。













