暗黙知と形式知:隠れたノウハウ

ある種の知識は、きれいに紙の上に載せられます。文章にまとめ、講義で教え、データベースに保存し、小テストで確認することもできます。一方で、もっとつかみどころのない知識もあります。見て、真似して、経験を通じて少しずつ身につけていくのに、いざ説明しようとすると上手く言葉にならない——。この張り合いこそが、形式知(explicit knowledge)と暗黙知(tacit knowledge)の対比の核心にあります。

この違いを理解すると、なぜ「説明書を読むこと」と「本当にできるようになること」は別なのか、なぜ知っている顔を一瞬で見分けられるのか、そして人が何をどう知り、それをどう使うのかにおいて「文脈」がなぜそれほど重要なのかが見えてきます。

形式知とは、完全に言語化し、他人と共有し、説明できるタイプの知識です。歴史上の年号や数学の公式など、言葉ではっきり表現できる情報がこれにあたります。言語に乗せやすいため、本を読む、講義を受けるといった伝統的な学習方法と非常に相性がよい知識です。

この種の知識は、哲学でよく言われる「命題的知識」や「〜であるという知識(knowledge-that)」と大きく重なります。「2 + 2 = 4」という文は典型的な例です。このような知識は、そのまま文として述べられ、人から人へ伝達され、紙やデジタル形式で保存しておくことができます。

この「持ち運びやすさ」は形式知の大きな強みのひとつです。文書、図書館、音声・映像資料、デジタルデータベースといった形で保存できますし、情報を蓄積・共有するためのシステムの中で整理することもできます。教育、ビジネス、科学の世界では、人や組織、世代を超えて伝達できるという点で、形式知は非常に価値あるものになっています。

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暗黙知とは何か

暗黙知は、ひとつの重要な点で形式知とは正反対です。それは「簡単には言語化・説明できない」という点です。記事に挙げられている例はどれも日常的で示唆的です。たとえば、誰かの顔を見分ける力や、熟練の職人が持つ実践的な技術などです。

親しい友人の顔をはっきり覚えているのに、「なぜそんなに素早く見分けられるのか」を正確な言葉で説明するのは難しいかもしれません。熟練の職人は、単なる手順書には到底書ききれないレベルの「タイミング」「感覚」「判断」で仕事をこなします。そこにある知識は実在し、有用で、しばしば高度に洗練されていますが、きれいな文章に整理しようとするとこぼれ落ちてしまうのです。

暗黙知は、実践的な知識や、ノウハウ(procedural knowledge)と呼ばれる知識の一部と密接に結びついています。ノウハウとは、自転車の乗り方や泳ぎ方のような、実際に「〜できる」という能力やスキル、コンピテンスのことです。たとえ本人がルールや手順を言葉で説明できたとしても、その能力自体は多くの場合、「言葉」よりも「繰り返しの実践」に支えられています。

なぜ「練習」がそれほど重要なのか

暗黙知が言葉だけでは教えにくい大きな理由のひとつは、それがしばしば「自分でやってみる経験」や「直接の練習」を通じて身につくものだからです。このことは、ある能力が「実際にやってみないと上達しない」理由を説明してくれます。

あるスキルについて読むことは学習を助けますが、暗黙的な熟達は、経験を重ねることで大きく育っていきます。記事では、暗黙知と「試行錯誤」や「経験から学ぶ」といった知識の獲得方法とを結びつけています。これは、多くの暗黙的な能力がどのように育つのかを示すヒントです。すなわち、きれいに一般化されたルールとしてではなく、特定の状況の中で形づくられた習慣や感受性として発達していくのです。

これが、なぜ本や講義だけではどこか物足りなく感じられるのかという理由のひとつでもあります。本や講義は形式知を伝えるには非常に優れた道具ですが、実際の仕事や失敗、文脈との繰り返しの接触から生まれる、きめ細かいノウハウまではうまく伝えきれないことがあります。

暗黙知と「なじみ」と直接経験

暗黙知を理解するうえで役立つ別の切り口が、「知覚によるなじみ(knowledge by acquaintance)」という考え方です。これは、人や物、場所と直接触れ合う経験から生まれる「なじみ」の感覚です。たとえば、チョコレートを実際に食べることでその味に「なじみ」を持つことや、タウポ湖(Lake Taupō)を実際に訪れることでその場所に親しみを持つことなどが挙げられています。

こうした「なじみによる知」は、単に事実を集めることとは違います。チョコレートについて多くの情報を読んだとしても、一度も食べたことがなければ、その人が得ているのは命題的な知識だけであって、同じ意味での「直接的ななじみ」ではありません。この違いは、暗黙知がしばしば「説明」ではなく「接触」に根ざしていることをわかりやすく示しています。

日常生活の中で、人が頼りにしているものの多くは、こうした「なじみ」から積み上がっています。道具の「手になじむ」感覚や、作業のリズム、部屋全体の雰囲気のようなものは、実際にそこに身を置き、参加することで身についていきます。そうして得た知識は、完全には言葉にできなくても、行動をとても効果的に導いてくれます。

状況依存の知識:なぜ文脈が重要なのか

このエピソードでは、「状況依存的な知識(situated knowledge)」にも注目しています。これは、議論をさらに一歩進める概念です。状況依存的な知識とは、特定の状況に固有の知識のことです。実践的・暗黙的な知と深く関係しており、特定の環境の中で学ばれ、そこで活かされる知識です。

この考え方は、「あらゆる知識は絶対的で、普遍的で、文脈に依存しない」という幻想に疑問を投げかけます。記事によれば、状況依存的な知識はしばしば、具体的な歴史的・文化的・言語的な文脈に依存するものとして論じられます。つまり、人が何を知り、どうやってそれを知り、どう表現するかは、その人が置かれている状況によって形づくられる可能性があるのです。

「コンテクストフリー(context-free)」という言葉は、「状況や使用目的に依存しない」という意味です。命題的な知識は、特定の用途に限定されないという点で、しばしばコンテクストに依存しないものとして語られます。暗黙知や状況依存的な知識は、その点で異なります。これらは特定の環境や実践のなかで生まれてくることが多く、その場から切り離すとわかりにくくなってしまうことがあります。

このことは、二人の人が異なるタイプの知識を持っている状況を理解するうえで重要です。違いが「一方が物を知っていて、もう一方は無知だから」というだけではなく、それぞれが歴史・文化・言語・社会生活のなかで異なる位置にいるからこそ生じている場合もあるのです。知識の人類学は、社会的・文化的な環境と結びつけて、知識がどのように獲得・保存・検索・伝達・再生産・変化していくのかを研究する領域です。

なぜ同じ知識でも広がり方が違うのか

形式知は、メディアを通じて広がりやすい知識です。本、講義、文書、データベース、新聞、ブログ、その他の証言(testimony)の形で伝わっていきます。証言とは、誰かがある事実を伝えることで得られる知識のことです。情報源が信頼できるとき、それは非常に強力な知識の源泉になります。

暗黙知の広がり方はそれとは異なります。観察、参加、模倣、そして実践への繰り返しの関わりが必要になることが多いのです。そのため、短期間で一気に広く共有することは難しくなります。組織はマニュアルなら簡単に保管できますが、「生きた熟練」をそのまま残すのははるかに難しいのです。

この課題は、知識の歴史にも現れています。中世のギルド(同業組合)の形成は、技術や職人技の知識を保存し、発展させる役割を果たしました。これは示唆的な例です。というのも、職人技に関する知識こそ、抽象的な文章だけではとらえきれないタイプの知識だからです。そうした知識を生かし続けるには、「実践共同体(コミュニティ・オブ・プラクティス)」が必要になるのです。

それでも形式知が重要であり続ける理由

とはいえ、だからといって形式知が劣っているという意味ではありません。多くの場面で、形式知はなくてはならないものです。たとえば科学は、公的で、信頼でき、再現可能なタイプの知識に大きく依存しています。科学的方法は、観察・測定・実験・明確な手順といった要素に裏打ちされ、他の研究者が再現できる形の知識を生み出すことを目指しています。

知識を明示的に表現することは、その知識を検証し、批判し、洗練し、共有することを容易にします。教育、ナレッジマネジメント、科学コミュニケーションの中心にあるのは、この形式知です。ナレッジマネジメントにおいて、組織は文書、データベース、規程、手順書といった形で知識を作成・収集・保存・共有します。こうした仕組みは、知識が明確に言語化されているときに最もよく機能します。

しかし、形式知と暗黙知の区別は、「価値あるものがすべて形式化できるわけではない」という事実も思い出させてくれます。ナレッジベースにはルールを保存できますが、人間の専門性には、しばしば文字になった指示を超える微妙な判断が含まれています。

二つの間にある「隠れたパートナーシップ」

暗黙知と形式知は、対立する敵同士というより「パートナー」として理解するほうがふさわしいでしょう。形式知は構造・説明・伝達可能性を与え、暗黙知は感覚・タイミング・応用力・実践的な手応えを与えます。

学生は講義で明示的なルールを学び、その後の練習を通して少しずつ暗黙的なスキルを身につけていきます。職人はまず暗黙的な熟達からスタートし、その後になって自分の技の一部を言語化することもあります。多くの実践的な活動では、この二つの形式が重なり合っています。

この話は、認識論(epistemology)と呼ばれるより広い議論にもつながっています。認識論は、人が何を・どうやって知るのか、そして「知っている」とはどういうことかを研究する哲学の一分野です。言葉で簡単に言い表せる知もあれば、「生きられたコンピテンス」に近い知もあります。証言や言語を通じて得る知識もあれば、知覚、記憶、なじみ、実践を通じて得る知識もあります。人間の「知ること」の全体像は、紙の上に書かれた事実だけよりはるかに広いのです。

日常生活でこの区別が意味を持つ理由

暗黙知と形式知の対比は、よくあるフラストレーションの理由を説明してくれます。たとえば、「説明書は正しいのに、やってみるとうまくいかない」ことがある理由、初心者が定義よりも「実演」を必要としがちな理由、そしてなぜ経験によって、単なる説明では得られない形で理解が変化していくのか、といった点です。

また、この区別はより深いポイントも浮かび上がらせます。それは、知識が常に「知る主体」から切り離されているわけではない、ということです。私たちが知っていることの一部は、自分の状況や習慣、歴史的背景、生き方のあり方に結びついています。これが、状況依存的な知識の力です。「知ること」は、きっちりラベルを貼ってファイルにしまっておくというよりも、むしろ世界との繰り返しの接触によって自分自身が形づくられていくことに近い場合もあるのです。

ですから、誰かが「わかってるんだけど、うまく説明できない」と言ったとき、それは怠惰や混乱のせいとは限りません。むしろ、その人が、人間にとって最も重要な理解のかたちのひとつ——言葉になる前の「実践・文脈・経験」の中に生きているタイプの知識——と向き合っているという手がかりなのかもしれません。

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