知識のタイプ:命題的知識・技能的知識・直接的認識

「知識」と聞くと、多くの人は事実を思い浮かべます。日付、公式、名前、真か偽かが判定できる文などです。しかし、知識はそれだけにとどまりません。「〜である」と知っていることだけでなく、「〜のしかた」を知っていることや、直接の経験を通じて知っていることも含まれます。

この広い見方は、知能や学び、さらには世界を理解するとはどういうことかを考えるときに大きな意味をもちます。水泳について多くの事実を知っていても、実際に泳ぎ方を知らない人はいます。チョコレートやある有名な湖について文章を読むことはできても、そこに行き着くまでの「直接のなじみ深さ」は、実際の経験を通じてでなければ得られません。

重要な知識の一種が、命題的知識と呼ばれる「〜であること」の知識(knowledge-that)です。たとえば「2 + 2 = 4 であること」や「カンガルーは跳ねるということ」を知っている、といった事実についての知識です。「命題的」と呼ばれるのは、真か偽かが問える命題(文や内容)との結びつきがあるためです。

これは哲学で最も多く論じられてきたタイプの知識です。日本語では「〜ということを知っている」というかたちで表されます。「赤ちゃんが泣いているということを私は知っている」「彼女は金に特定の原子量があるということを知っている」といった具合です。命題的知識はふつう、概念・アイデア・理論・規則のような心的表象を伴います。そうした表象が、世界のある部分がどのようであるかを示すことで、知る主体と現実とのあいだを結びつけています。

このように概念や表象に依存しているため、命題的知識はしばしば、比較的高度な思考を行う主体に結びつけられます。それは世界との「生の接触」だけではなく、言葉にして述べ、議論し、評価できるかたちで事実を把握しているということだからです。

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非命題的知識:事実だけではとらえきれないもの

すべての知識が、文の中の事実のように機能するわけではありません。哲学者たちは、そうした他のかたちの知識をまとめて「非命題的知識」と呼びます。なかでも重要なのが、「〜のしかた」の知識(knowledge-how)と、「なじみとしての知識」(acquaintanceによる知識)です。

これらのタイプの知識は、本質的には命題との関係にもとづいていません。平たく言えば、「真なる文を頭の中に保持していること」が中心ではないのです。その代わりに、実践的な有能さや、直接的ななじみ深さが関わります。

だからこそ、知識は単に正しい答えをしまっておく「頭の中の倉庫」ではありません。行為としての技能であり、経験を通じた直接的なつながりでもあるのです。

「〜のしかた」の知識:スキル・能力・コンピテンス

「〜のしかた」の知識(knowledge-how、ノウハウ、手続き的知識)は、実践的な知識です。自転車の乗り方、水泳のしかた、ある作業をうまくこなす方法といったものに関わります。

このタイプの知識は、能力や技能、コンピテンス(有能さ)についてのものです。場合によっては、knowledge-how の中に knowledge-that が含まれることもあります。たとえば数学の定理を証明するには、命題や規則を理解する必要があるかもしれません。しかし、一般的にいつもそうとは限りません。人間や動物は、自分が何をしているかを理論として言葉で説明できなくても、実践的な能力を持っていることがあります。

この点は、より単純な生き物を考えるといっそうはっきりします。アリは歩き方を「知っている」と言えますが、それに対応する命題を表象できるほど高度な心を持っているとは考えにくいでしょう。この例は、knowledge-how を「頭の中に文をたくわえること」に還元できない理由を示しています。多くの能力は、言語のような思考を必要としないのです。

この洞察は、実践的な意味も持ちます。私たちは、言葉で説明できるものだけを重視するあまり、「何が知識に含まれるか」を過小評価しがちです。しかし、実際には膨大なコンピテンスが、言葉ではなく行為の中に埋め込まれています。高度な実践的熟達は、現実に確かなものであっても、それをうまく言語化するのが難しいことがあるのです。

なじみとしての知識:直接の親しみ

「なじみとしての知識」(knowledge by acquaintance)は、また別のかたちの知識です。それは、人・場所・ものとの直接的な経験的接触から得られる親しみです。チョコレートを食べれば、チョコレートの味と「なじみ」になります。タウポ湖を訪れれば、タウポ湖と「なじみ」になります。

これは推論から導かれた知識ではなく、一次的・直接的な知識です。ここで「非推論的(non-inferential)」という言葉が役に立ちます。これは、前提から推論して知られるのではなく、直接知られることを意味します。友人から来たハガキにチェコの切手が貼ってあるのを見て、「友人はいまチェコ共和国にいるのだろう」と推測するのとは違い、チョコレートの味は、推論によってではなく、実際に味わうことで知るのです。

この種の知識は、日常的に多くの人が感じている違いを説明します。本を読んだり、メニューの説明を読んだり、味についての化学的な解説を暗記したりすることはできます。しかし、それだけでは直接的な「なじみ」の感覚が保証されるわけではありません。チョコレートについて多くの真理を知っていても、その味を「なじみとして」知っていないことはありえます。ある湖に関する事実をいくつも知っていても、その湖を実際に訪れた人が持つような意味で「その湖を知っている」とは言えないかもしれません。

だからこそ、直接経験は学びにおいて特別な役割を持ちます。事実的な記述だけでは完全には置き換えられない、一種の「接触」を加えてくれるからです。

なぜ直接経験は特別に感じられるのか

事実情報と「なじみとしての知識」の対比は、なぜある学びは薄っぺらく感じられ、別の学びは生き生きと感じられるのかを説明する助けになります。読書は記述的な知識を与え、観察は経験的な知識を与えます。しかし「なじみ」は、即時的な親しみをもたらします。

とはいえ、事実の知識が重要でないわけではありません。多くの場合、命題的知識のほうが、より遠くへ、より速く伝わります。本に書かれ、図書館に保存され、講義で教えられ、話し言葉や新聞、手紙、ブログなどの証言を通じて共有できます。それに対して、「なじみ」としての知識は、しばしば直接の接触を必要とします。

この直接性こそが、その力の一部です。この知識は、推論の連鎖や他人の報告ではなく、「経験そのもの」に根ざしています。そのため、情報通であっても、実際に自分で経験してみるまでは「本当の意味ではまだよく知らない」と感じることがあるのです。

バートランド・ラッセルと「なじみ」の優先性

哲学者バートランド・ラッセルは、「なじみとしての知識」に特別な位置づけを与えました。彼はこの概念を導入し、「なじみ」のほうが命題的知識よりも根本的だと主張しました。

その論拠はきわめて単純です。命題を理解するには、その構成要素とすでに「なじみ」でなければならない、というのです。言い換えれば、ある対象についての文を理解できるようになる前に、その文を構成する要素との間に、すでに何らかの直接的な親しみがなければならない、ということです。

この考えでは、「なじみとしての知識」は理解の基礎的役割を担います。それは単なる多くの知識の一種類ではなく、少なくとも一部の命題を理解するための条件なのです。この見方に立つと、直接的な経験的接触は、思考のあとから付け足されるオプションではありません。むしろ、思考が現実をとらえる仕組みに最初から織り込まれているのです。

異なる知識、異なる学び方

こうした区別をはっきりさせると、教育や専門性についての考え方を改善できます。

明示的知識は、歴史の年号や数学の公式のように、言語化し、共有し、説明できる知識です。本を読んだり、授業に出たりすることで身につけることが多くあります。これに対して暗黙知は、顔の見分け方や、名人職人の実践的な熟練など、簡単には説明できない知識です。暗黙知は、直接の経験や実践を通じて学ばれることが多くなります。

これは、「事実を知ること」と「技能やなじみによって知ること」の対比ときれいに対応します。あるものは教科書に簡単に書き表せますが、別のものは練習しなければ身につきません。また別のものは、実際に出会わなければならないのです。

そのため、本当の理解には、多様な知識源を組み合わせることがよくあります。知覚は感覚を通じて外界へのアクセスを与え、記憶は過去に学んだことを保持します。推論は、すでに知っていることから結論を導きます。証言は、ある人が別の人から学ぶことを可能にします。しかし、こうしたどの方法も、「直接のなじみ」と「身体化された技能」の特別な位置づけを完全に消し去るわけではありません。

これらの区別が重要な理由

「know-that(〜であること)」「know-how(〜のしかた)」「acquaintance(なじみとしての知識)」の違いは、専門的な細かい話ではありません。それは、心や教育、そして「理解した」と言える条件をめぐる議論のかたちを大きく左右します。

もしすべての知識が命題だけだとすれば、技能は二次的なものに見え、経験は事実を運ぶための単なる運搬手段のように見えてしまいます。しかし、実践的な能力と直接のなじみは、人間の知識がそれ以上に豊かなものであることを示しています。人は、文を唱えずとも「知って」いることがあり、説明だけではなく直接の接触を通じて、より深く理解することもできるのです。

この広い見方は、なぜある種類の知識は他よりも伝達しやすいのかを説明する助けにもなります。事実は、証言や文章を通じて伝えられることが多くあります。技能は、実演や練習を必要とすることが多いでしょう。「なじみとしての知識」は、しばしば実際の経験そのものを要請します。

ですから、知識を単なる丸暗記した情報として扱う人に出会ったら、このもっと広い景色を思い出す価値があります。私たちは真理を知り(know-that)、やり方を知り(know-how)、なじみを通じて知っています(acquaintance)。そしてこの後者のかたちがなければ、知識が「本当にリアルに感じられる」ための多くの要素が欠けてしまうでしょう。

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