ロゼッタ・ストーンは世界で最も有名な遺物のひとつですが、その近代以降の物語は、古代エジプトやヒエログリフ解読の話だけではありません。戦争と帝国主義、博物館による収集、そして今なお論争を呼び続ける問い――「強い国家的・世界的意味を持つ物を、誰が所有すべきなのか」――をめぐる物語でもあります。
古代エジプト文字解読の鍵として最もよく知られるこの石は、同時に劇的な近代の旅路もたどりました。エジプトでフランス軍によって発見され、軍事的敗北ののちにイギリスの管理下に移され、ロンドンに運ばれたあと、1802年からほとんど途切れることなく展示され続けています。時とともに、それは単なる考古学的発見ではなく、文化的シンボルとなっていきました。
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戦時下のエジプトでの発見
ロゼッタ・ストーンが発見されたのは、フランスによるエジプト侵攻のさなか、1799年7月のことです。フランス兵たちは、ナイル・デルタにある港町ロゼッタ(現在のラシード)近くのジュリアン要塞の防備を強化していました。その要塞内部で建物の取り壊し作業をしている際、ピエール=フランソワ・ブシャール中尉が、刻文のある石板が掘り出されているのに気づきました。
この遺物をただちに注目すべきものにしたのは、表面に刻まれた三種類の文字でした。上段はエジプトのヒエログリフ、中段はデモティック、下段は古代ギリシア語です。デモティックは後期エジプトの書記体系で、格式張ったヒエログリフの文語よりも、プトレマイオス朝エジプトで実際に話されていた言葉に近いものでした。三つの碑文は、細部の違いこそあれ、同じ勅令の異なる文字による版であったため、この石は最終的にエジプト文字解読の決定的な手がかりとなります。
発見の瞬間から、その重要性は察知されていました。カイロのエジプト学協会(Institut d'Égypte)に提出された報告書では、三つの碑文が同一の本文の別バージョンであることが正しく指摘されています。ほどなくして石の写しが作られ、ヨーロッパ各地の学者たちの間で回覧されました。
なぜイギリスの手に渡ったのか
所有権が変わったのは、軍事的敗北の結果としてでした。ナポレオンがヨーロッパへ戻ったのち、イギリス軍は1801年にエジプトへ上陸します。やがてフランス軍はアレクサンドリアで包囲され、8月30日に降伏しました。
アレクサンドリア降伏協定の条件により、フランス遠征中に成された重要な発見物はイギリス側の所有となりました。実務的には、ロゼッタ・ストーンを含む古代遺物がフランスからイギリスへと引き渡されたことを意味します。この出来事は、降伏条件に基づく「移管」として語られることが多いものの、実際には円滑でも一枚岩でもありませんでした。
フランスの科学・考古学コレクションが、フランス軍に属するのか、フランス国家に属するのか、それとも個々の学者に属するのかをめぐり、深刻な論争が起きました。フランス軍司令官ジャック=フランソワ・ムノーは、資料は学術機関に属するものであり、引き渡すべきではないと主張して抵抗しました。これに対し、イギリス軍のジョン・ヘイリー=ハッチンソン将軍は、それらはイギリス王室の財産だと主張しました。フランス人学者エティエンヌ・ジェフロワ・サン=ティレールは、フランス側が発見物を引き渡すくらいなら破壊したほうがましだとまで述べています。
これは穏やかな博物館間の受け渡しではなく、包囲戦と軍事力、そして知と威信をめぐる対立した主張に彩られた、緊張に満ちたやり取りだったのです。
引き渡しの経緯はいまも不透明
所有権をめぐる議論がなおも人々を惹きつける一因は、移転の詳細な経緯すらはっきりしない点にあります。
同時代の記録は、食い違う場面を描いています。のちに石をイギリスへ護送したトムキンズ・ヒルグローヴ・ターナー大佐は、ムノーから自ら石を押収し、大砲の砲車に載せて運び去ったと主張しました。一方で、エドワード・ダニエル・クラークは、ずっと劇的な別の物語を伝えています。彼によれば、フランス軍将校で学会員でもあった人物が、クラークとジョン・クリップス、ウィリアム・リチャード・ハミルトンをムノー邸の裏通りへと密かに案内し、ムノーの荷物の中に保護用の敷物に覆われて隠されていた石を見せたというのです。クラークは、もしフランス兵たちが石の所在を知れば盗み出すかもしれないと、案内役が恐れていたのだと示唆しています。
こうした食い違う証言は、石の旅路をどう解釈するかに直結します。正式な降伏として引き渡されたのか。個人的に隠されていたのか。武力で押収されたのか。残された記録だけでは、すっきりとした結論には至りません。
捕獲品から大英博物館の顔へ
ターナーは、拿捕したフランス軍フリゲート艦「エジプシエンヌ」号にロゼッタ・ストーンを積み、1802年2月にポーツマスへ到着しました。ジョージ3世は、この石を大英博物館に収蔵するよう命じました。その最終移送の前に、ロンドン古物協会で学者たちに公開され、1802年3月11日の会合で初めて正式に紹介・議論されました。
ほどなくして、石の碑文の石膏鋳造や印刷物が主要大学や学者のもとに配布されました。こうした広範な共有が、のちのヒエログリフ解読へとつながる研究を大きく後押ししました。
同じ1802年の後半、石は大英博物館の正式な所蔵品となり、現在に至るまで同館にとどまっています。その年の6月以降、展示はほぼ途切れることなく続けられてきました。数十年のあいだに、ロゼッタ・ストーンは博物館で最も来館者数の多い単一の展示物となりました。その名声は高まり続け、石の写真は何十年にもわたって博物館で最も売れたポストカードとなり、その形と碑文はミュージアムショップの商品にも数多くあしらわれるようになりました。
かつてラシード近郊の要塞の基礎に組み込まれていた石が、世界有数の博物館の「顔」ともいえる存在へと変貌したことは、きわめて象徴的です。
なぜこれほど強い象徴性を帯びるのか
ロゼッタ・ストーンをめぐる所有権論争がとりわけ激しいのは、これが単なる古代遺物ではなく、古代エジプト文学と文明を現代が理解するうえで密接に結びついた存在だからです。
碑文の内容は、紀元前196年、プトレマイオス5世エピファネス治世下で出された勅令です。勅令は若き王を神格化する祭儀を定め、ヒエログリフ・デモティック・ギリシア語で刻んだ写しを神殿に設置するよう命じていました。この三言語表記のおかげで、何世紀ものあいだ理解されていなかった文字体系が、のちに解読可能になったのです。
4世紀頃には、ヒエログリフを読めるエジプト人はほとんどいなくなっていました。神殿祭司層の消滅とキリスト教化によって、記念碑的なヒエログリフの使用は終わります。1799年のロゼッタ・ストーン発見は、長らく欠けていた決定的な手がかりをもたらしました。
こうした役割ゆえに、この石は単なる花崗閃緑岩の石板以上の意味を持つようになりました。それは失われた知を取り戻すことの象徴となったのです。実際、「ロゼッタ・ストーン」という言葉は、今では新たな分野を理解するうえで不可欠な手がかりという比喩として広く使われています。
この象徴的重みこそが、所有権問題をいっそう複雑にしています。ロゼッタ・ストーンは同時に、エジプト的であり、帝国的であり、学術的であり、そしてグローバルな存在なのです。
エジプトによる繰り返しの返還要求
エジプト政府は、ロゼッタ・ストーンの返還を繰り返し求めてきました。2003年7月、当時エジプト最高考古評議会の事務総長を務めていたザヒ・ハワスは、ロゼッタ・ストーンをエジプトのアイデンティティを象徴する存在だと述べ、返還を要求しました。この呼びかけは2年後にパリで改めて行われ、2022年8月にも再び主張が繰り返されています。
その過程で、妥協案が模索されたこともありました。2005年、大英博物館はロゼッタ・ストーンの実物大のグラスファイバー製レプリカ(色味も実物に合わせたもの)をエジプト側に提供しました。このレプリカは、元の石が発見された場所に最も近い町にあるラシード国立博物館の改装オープン時に展示されました。ハワスは三か月間の貸与案も提案し、その後、大英博物館がギザの大エジプト博物館開館のために一時的に石を貸し出すのであれば、恒久的返還の要求は取り下げる用意があるとも述べました。
こうした提案は、この問題が単に法的・歴史的なものではなく、外交的かつ象徴的な性格も持つことを示しています。エジプトにとって石は文化遺産でありアイデンティティの象徴です。一方で大英博物館にとっては、国際的な来館者に向けて提示するコレクションを特徴づける代表的作品のひとつなのです。
博物館側が掲げる「維持」の論理
より広い博物館側の立場は、「ユニバーサル・ミュージアム」という考え方と結びついています。これは、特定の一国だけでなく、世界中の来館者のために存在する博物館という理念です。各国の国立博物館は、国際的に重要な遺物の返還要求にしばしば反対してきました。
2002年には、大英博物館を含む30以上の主要博物館が共同声明を出し、過去に取得された遺物は、当時の価値観や感覚の文脈のなかで理解されるべきであり、博物館はすべての国の人々に奉仕していると主張しました。
この見方では、ロゼッタ・ストーンは人類共通の歴史の一部として位置づけられます。こうした立場を支持する人々は、ロンドンでの展示によって石が世界中の来館者の目に触れるようになり、その名声が製作地や出土地をはるかに超えて広がったことを指摘します。
しかし反対派は、そうした論理をまったく異なるものとして受け取ります。彼らにとって、ロンドンに石があるという事実は、侵略と降伏、不均衡な権力関係と切り離して語ることはできません。
一つの石を超えた論争
ロゼッタ・ストーンの所有権争いは、多くの博物館所蔵品に共通する大きな問題を浮かび上がらせます。戦時に持ち去られた遺物であれば、その来歴は、のちに公共コレクションとして果たしてきた役割よりも優先されるべきなのでしょうか。ある遺物が世界的な象徴となった場合、それは「どこにでも属する」ことになるのか、それとも出土地の重要性をかえって高めることになるのか。現代の制度は、帝国主義時代の前提にもとづいて行われた所有権移転をどのように評価すべきなのでしょうか。
ロゼッタ・ストーン自身の近代史には、こうした問いを絶えず生み出し続ける要素がすべて詰まっています。軍事征服、食い違う目撃証言、学術的威信、大衆的な魅了、そして競合する国家的主張――。
ジョン・レイは、ロゼッタ・ストーンがロゼッタにあった時間よりも、大英博物館に置かれている時間のほうが長くなる日がいずれ来ると指摘し、その皮肉を言い表しました。この言葉は、所有権をめぐる論争が単に「古代の起源」だけを問題にしているわけではないことを際立たせています。議論の対象となるのは、近代の制度のなかで物がどのような「第二の人生」を歩んできたかという点でもあるのです。
なぜロゼッタ・ストーンは今も重要なのか
多くの人にとって、ロゼッタ・ストーンは古代エジプトの声を現代に取り戻した遺物です。他方でこれは、帝国がいかに過去の物質文化を収集し、展示し、自らのものとして主張してきたかを示す事例研究でもあります。
神殿の勅令碑から建材としての再利用、戦時下の発見から博物館のアイコンへという歩みは、この石がなぜこれほど人々を惹きつけ続けるのかを物語っています。失われた文字を解き明かしたことで有名になった石は、その一方で、自身の近代史が公衆の想像力のなかでいまだ決着を見ていないがゆえに、論争の的であり続けているのです。
だからこそ、この議論が完全に終わることはありません。ロゼッタ・ストーンは紀元前196年の遺物であるだけでなく、文化遺産と権力、そして世界で最も意味深い遺物を「誰が持つのか」をめぐる現代の対話における、今も生きた象徴でもあるのです。