終わらないメルトダウン――福島原発事故

多くの人が福島を思い浮かべるとき、まず頭に浮かぶのは2011年3月の爆発シーンだろう。しかし、この事故で最も不気味だったのは、あの劇的な数日間そのものではない。その後、原子炉の内部で起きたこと――燃料の溶融、格納機能の損傷、そして2050年頃まで続くと見込まれる、極めて困難な廃炉・汚染水対策――こそが、福島事故の本質だった。

最も衝撃的な知見の1つは、1号機からもたらされた。後の解析によれば、溶けた燃料の多くは本来あるはずの場所にはとどまらなかったとみられている。原子炉圧力容器から外へ漏れ出し、格納容器の底部にあるコンクリートにまで達して埋まり込んだ可能性が高いのだ。さらに後のシミュレーションでは、この溶融燃料が基礎コンクリートを侵食し、地表下の土壌に漏れ出すまであと約30センチ――およそ1フィート――のところまで迫っていたという推計さえ示された。

このイメージこそ、なぜ福島第一原発事故が警報音が鳴り止んだ時点で「終わり」ではなかったのかを物語っている。事故は、溶け落ちた燃料デブリ、損傷した構造物、汚染水、避難と補償、そしてチェルノブイリ以来最悪とされる原子力災害の長く尾を引く影響と向き合う、数十年単位の闘いへと姿を変えた。

原子炉圧力容器とは、核燃料を収める厚い鋼鉄製の容器だ。通常は冷却系が燃料を冷やし、過熱を防いでいる。福島第一では、地震により運転中の原子炉は自動停止したが、それで危険が去ったわけではなかった。停止後もしばらくは、原子炉も使用済み燃料も継続的な冷却が必要とされる。

しかし地震と津波により外部電源が喪失し、非常用電源も大きな被害を受けた。十分な電力が確保できなくなったことで、冷却系は本来の機能を安定して果たせなくなる。これが燃料の過熱、炉心損傷、放射性物質の放出へとつながっていった。

1号機では、所内の通常の非常用冷却設備に依存することができなくなった。運転員たちは消火設備を代用し、後には消防車を使って注水しようとしたが、圧力異常、機器故障、がれきの下に隠れた接続ポイント、たび重なる作業中断などが対応を遅らせた。さらに水素爆発が原子炉建屋を損傷し、緊急対策は一層妨げられることになった。

その後2011年11月の解析で、長時間にわたり冷却が失われた結果、1号機の燃料が溶融したと判断された。炉心が深刻な損傷を受けただけでなく、燃料の大部分は原子炉圧力容器の外へ漏れ出したと考えられたのである。

恐怖を呼んだ1号機の推計

それでも「本当のところ」は誰にも分からなかった

後のコンピュータシミュレーションで最も記憶に残るのは、「あと少しでさらに深刻な状態になり得た」という推計だ。2013年のシミュレーションでは、1号機で溶けた燃料が一次格納容器の底を突き抜け、基礎コンクリートを一部侵食し、地面まで約30センチのところで止まった可能性が示された。

この数字は目を引くものだが、重要な但し書きが付いていた。炉内の正確な状態は依然として不明だという点である。京都大学のある原子力工学者は、「実際に炉の内部を見てみるまでは、誰にも確信は持てない」と率直に指摘した。

この「わからなさ」こそ、福島事故後を特徴づける要素の1つだ。圧力計測や放射線量測定、シミュレーションがあっても、調査員たちは人が直接立ち入ることが極めて困難な、激しく損傷し高線量となった構造物の内部で何が起きたのかを、手探りで再構成していくしかなかった。

なぜ全体像がなかなか見えなかったのか

だからこそ、廃炉は「世代をまたぐ仕事」になった

福島第一は、調査員が被災現場に入り、隅々まで目視で点検できるような「単純な」産業事故ではなかった。放射線被ばくの危険、水素爆発、機器の破損、浸水、計器類の喪失などにより、多くのエリアは人が近づくことすら不可能になった。

事故のさなか、一部の中央制御室の計器表示は機能を失った。1号機の運転員たちは、限られた情報から炉内の状況を推測せざるを得なかった。2号機と3号機では、非常用冷却系が一時は作動したものの、長時間運転による疲弊、資源の枯渇、弁の故障、電源や圧縮空気の不足などで後に停止した。4号機では、事故当時原子炉自体には燃料が装荷されていなかったにもかかわらず、3号機から共用配管を通じて流入したとみられる水素により建屋が爆発したと考えられている。

事故対応の過程では、状況把握のためロボットも投入されたが、この事故は、こうした環境下でのロボット技術の限界も浮き彫りにした。ロボットは画像撮影や一部の点検には役立ったものの、人間の作業員が担うような多様で柔軟な作業をこなすには、耐久性や器用さがまだ足りなかった。特殊に設計されたロボットのいくつかは、あまりの高線量のために途中で機能を失った。

こうして不確実性は長年にわたり残り続けた。最も重要な疑問の多くが、危険すぎるか、損傷が激しすぎるか、あるいはあまりにアクセスが困難な場所に関わっていたためである。

燃料デブリ――廃炉作業の中心にある「悪夢」

福島は、爆発が止まっても終わらなかった

福島の長い回復プロセスを語るうえで欠かせないキーワードの1つが「燃料デブリ」だ。これは、溶けた核燃料が、折れ曲がった金属や構造材、その他の炉内の残骸と混じり合った状態のものを指す。

そこにあるのは、燃料プールから健全な燃料棒を取り出せば済む、というような単純な話ではない。燃料デブリは、形も大きさも不規則で、極めて高い放射線を出し続ける危険な物質が、損傷した格納領域の内部にこびりつくように存在している。デブリの位置や状態は号機ごとに異なり、そのことが撤去作業を遅く、技術的に困難で、危険なものにしている。

東京電力は、1~3号機の原子炉格納容器内に残る溶融燃料デブリを、2050年頃までに取り出す計画を立てている。このスケジュールだけでも、事故初期の劇的なフェーズと、その後延々と続くフェーズとがいかに性格の異なるものであるかがわかる。緊急事態は数日単位で始まったが、回復と廃炉は世代をまたぐ時間軸で進んでいるのだ。

発電所の汚染除去と廃炉作業は、事故から30~40年を要すると見積もられている。言い換えれば、福島は2011年に一度起きて終わった「過去の出来事」ではない。21世紀半ばにまで及ぶ、継続中の産業・環境・社会プロジェクトなのだ。

「一週間で終わらなかった」災害

福島のメルトダウンは、地面まであと30センチだった可能性がある

福島第一の爆発は世界的な象徴となったが、その後の余波は別の、多くの難題へと広がっていった。

まず避難の問題があった。周辺地域からは少なくとも16万4千人が、一時的または恒久的に避難を余儀なくされた。避難に伴う負担は少なくとも51人の死亡と関連づけられており、とくに病院や介護施設の入所者など、弱い立場の人々に深刻な影響を与えた。恐怖やストレスも大きく、事故から10年がたってもなお、4万1千人以上の福島県民が避難生活を続けていた。

汚染水の問題もあった。損傷した原子炉を冷却し続けるための水に加え、地下水が建屋内へ流入し続けたため、膨大な量の水をくみ上げ、浄化し、再利用したり貯蔵したりする必要が生じた。2019年10月時点で、発電所敷地内には117万立方メートルの汚染水が貯蔵されていた。処理水の取り扱いと海洋放出の方針は国際的な論争を呼び、近隣諸国の抗議や、漁業者・環境団体からの強い批判を招いた。

さらに莫大な費用ものしかかった。2016年、日本の経済産業省は、除染や廃炉、損害賠償などの費用を総額20兆円と試算した。その後の政府推計では、除染、補償、廃炉、放射性廃棄物の保管にかかる費用はさらに膨らむと見積もられている。

「福島は終わっていない」という表現は、単なる比喩ではない。原子炉を安定状態に保たなければならず、損傷した燃料の状況を把握し、最終的には取り出す必要があり、汚染水は日々管理し続けなければならない。地域社会の再建も進めなければならず、補償をめぐる法廷闘争も長く続いた。

なぜ「長い後始末」になったのか

各種調査は、この大事故を単なる自然災害とは位置づけなかった。安全文化、リスク評価、監督体制の欠陥があったと結論づけたのである。国会事故調(福島原発事故独立検証委員会)は、この事故は予見可能であり、防ぐこともできたと指摘し、政府と事業者のリーダーたちは社会を守る責任を果たせなかったと批判した。

2011年以前から、津波リスクに関する警告は存在していた。社内外の調査や報告は、当時の想定を大きく上回る津波高の可能性を指摘していた。しかし、それに見合う防護対策は講じられなかった。

これは、福島事故後の長期化が、地震と津波の物理的な大きさだけでなく、それ以前の備えに関する意思決定にも左右されたことを意味する。複数の原子炉が電源と冷却機能を同時に失った時点で、その後の影響は格段に制御しづらくなった。そして一度、溶けた燃料が圧力容器や格納容器を損傷させてしまえば、廃炉ははるかに困難なカテゴリーへと移行してしまう。

「長い後始末」が人々にもたらしたもの

「長い後始末」という言葉は抽象的に聞こえるかもしれないが、福島においてそれは、無数の人生が引き裂かれたという現実を意味した。避難者への調査では、健康状態の悪化、経済的な困窮、家族の離散、不眠、ストレスの増大などが浮き彫りになっている。避難指示の区域が変わるたび、何度も転居を余儀なくされた人も多かった。調査では、家族の3分の1が子どもと離れて暮らし、半数が事故前に同居していた他の家族とも別々に生活していると回答している。

事故はまた、恐怖と不信、将来への不確実さという遺産も残した。事故当初の情報伝達の混乱は、政府や東京電力に対する信頼を損なった。重要なデータが扱いを誤られたり、公表が遅れたりした。記録が十分に残されなかったケースもある。「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉自体が、一時期は意図的に避けられていたとも報じられた。

こうした背景から、福島は単なる技術的事故ではなく、社会的な災害として記憶されている。リスクをどう伝えるか、避難時に弱い立場の人をどう守るか、不完全な情報のもとでいかに公共の信頼を維持するか――その難しさを白日の下にさらしたからだ。

メルトダウンがもたらした「数十年単位の精算」

1号機の「地面まであと30センチ」という推計は、福島事故の中でもとりわけ強烈なイメージとして残っている。溶けた炉心が鋼鉄を突き破って落下し、格納容器の底に溜まり、コンクリートを侵食し、地球の表面に達する直前でようやく止まったかもしれない――そうした光景だ。しかし、破壊があまりに大きかったため、当初はそのすべてを完全に検証することができなかったという点で、このイメージにもなお不確実性が付きまとっている。

この不確実性そのものが、物語の一部でもある。福島は「きれいに幕が下りる」タイプの災害ではなかった。内部の状況を確認することすら難しく、ましてや解体など到底すぐにはできない損傷原子炉と、長期にわたり向き合い続ける現場となった。

爆発は世界中のニュースを飾ったが、その後の本当の物語は、その後に続いた出来事の中にあった。炉心がどれほど深刻に溶け落ちていたかを解明する長年の解析、廃炉に30~40年を要するという現実の認識、そして2050年頃まで続く溶融燃料デブリの取り出し計画である。

多くの災害は「単発の悲劇」として語られる。しかし福島は違う。もっと重要な章が、事故直後ではなく、その後延々と続いている――そんな災害になってしまったのである。

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