姫路城――爆撃と地震を生き延びた城

姫路城の存在には、どこか伝説めいたものがあります。兵庫県姫路市の小高い丘の上に築かれたこの城郭は、およそ700年ものあいだ、政変や廃城、周囲一帯が焦土となった戦時の破壊、そして大規模な自然災害をくぐり抜けて、今もなお姿を保ち続けています。その歩みは、姫路城を「日本最大級の城」であるだけでなく、世界的に見ても驚くほどしぶとく生き延びた歴史建造物として際立たせています。

真っ白な外観と鳥が羽を広げたような優美な姿から、「白鷺城」として広く知られる姫路城は、美しさで有名です。しかし、その真価はむしろ「どれほど壊れなかったか」にあるのかもしれません。封建時代を生き延び、近代化の波による取り壊しを免れ、第二次世界大戦では姫路空襲を生き残り、さらに1995年の阪神・淡路大震災でもほとんど無傷で耐え抜きました。

第二次世界大戦末期、1945年の姫路は激しい空襲に見舞われました。市街地の多くは焼け野原となり、木造建築が中心だった日本各地の城郭なら、その時点で消滅していてもおかしくない状況でした。

それでも——姫路城は残りました。

天守には直撃で焼夷弾が落ちたものの、不発に終わり爆発しなかったと伝わっています。天守の最上階を直撃しながらも城そのものは倒壊せずに残った、というだけでも、どこか現実離れした話のように感じられます。

日本の城郭建築でいう「天守」は、城の中心となる最も高い建物で、戦時には要塞、平時には蔵や象徴的建築としての役割を担いました。藩主の政務や住居は、天守ではなく周囲の櫓や御殿に置かれるのが一般的です。姫路城においても、この天守は戦争という20世紀最大級の破壊の時代をくぐり抜けた「象徴」となりました。

見る者を驚かせた「地震の試練」

天守に落ちた一発の焼夷弾

戦時の空襲を生き残っただけでも十分に驚異的ですが、姫路城はさらにもう一つ、大きな試練に直面します。1995年1月、阪神・淡路大震災によって姫路市も大きな被害を受けました。

それでも、姫路城の損傷はごくわずかにとどまりました。

天守最上階の御簾の前に供えられていた酒瓶が、地震後もそのまま倒れずに残っていた——という逸話は、当時多くの人を驚かせました。地震は城壁を倒し、基礎を割り、何百年も積み重ねられてきた構造を一瞬で崩すことがあります。それにもかかわらず、その酒瓶さえ動かなかったという事実は、この城の構造がいかにしっかりと揺れに耐えたかを物語っています。

しかも姫路城は小さな建物ではありません。大天守の高さは46.4メートル、海抜では92メートルに達します。さらに三つの小天守を従えた連立式の天守群を形成しており、日本の城郭の中でもひと目でわかる独特のシルエットをつくり出しています。

姫路城が「壊れにくく」造られた理由

そして、大地が揺れた

姫路城は、もともと観賞用の建物として造られたわけではありません。戦国・江戸初期の防御拠点として築かれ、その構造の多くが軍事的な機能を強く意識したものになっています。

城内には、門・渡櫓・土蔵・櫓など、計83棟の建造物が含まれます。日本の城でいう「櫓(やぐら)」とは、見張りや防御、物資の保管などに用いられた小型の塔状建築のことです。姫路城の防御施設は、侵入者を混乱させ、動きを遅らせ、危険にさらすことを目的に、非常に巧妙に設計されていました。

城壁には、丸・三角・四角・長方形など、さまざまな形をした狭間(さま/ループホール)が多数開けられています。これは、火縄銃や弓を構えた兵が身を隠しながら敵を攻撃するための射撃口です。火縄銃は、戦国・江戸期に用いられた初期の銃火器で、姫路城には現在も約1,000個もの狭間が残っているとされています。

また、城壁には「石落とし」と呼ばれる斜めの開口部も設けられています。ここから石や熱湯・油などを落として、城壁の下に迫った敵を攻撃できる仕組みでした。外壁に多用されている白漆喰は、見た目の美しさだけでなく、防火性能の高さからも選ばれたと考えられています。木と石を主体とする大規模な城郭にとって、火に強い素材は極めて重要でした。

そして何より特徴的なのが、城全体の「迷路のような」構造です。姫路城の最大の防御は、天守へたどり着くまでの複雑な動線そのものにありました。城門・曲輪・堀・土塀を巧みに配置することで、敵方がまっすぐ天守に向かえないようにしていたのです。

外見上は天守がすぐ目の前に見えていても、実際にそこへ到達するには長い遠回りを強いられます。たとえば菱の門から大天守までの直線距離は約130メートルですが、実際の通路の長さは325メートルにもなります。傾斜がきつく、道幅は狭く、途中で折れ曲がったり引き返させられたりする経路が続きます。その間、侵入者は四方から監視・攻撃される仕組みになっていました。

興味深いことに、姫路城はこのような本格的な総攻撃を受けることなく歴史を終えたため、これらの複雑な防御設計が実戦で試されることはありませんでした。それでも、現在の観光客でさえ、案内表示が整備されているにもかかわらず「道に迷う」ほどです。

幾度も造り変えられ、守られてきた城

七百年の試練を越えて

姫路城の長い寿命は、その長い築城の歴史と切り離せません。現在の姫山に最初に城が築かれたのは、元弘の乱が起きた1333年、赤松則村によるものとされています。1346年には、最初の砦が「姫山城」として整備され、その後の改修で現在につながる「姫路城」へと姿を変えていきました。

1581年には豊臣秀吉が三重の天守を増築し、城を大きく拡張しました。その後、1600年の関ヶ原の戦いののち、徳川家康は姫路城を池田輝政に与えます。池田輝政は秀吉時代の天守を取り壊し、1601年から1609年にかけて現在見られるような大規模な城郭へと全面的な建て替えと拡張を行いました。工事に従事した延べ人員は250万人工にのぼったと推計されています。

さらに、1617年から1618年にかけて本多忠政が増築を行い、その際には千姫(徳川家康の孫娘)のための「化粧櫓」なども建てられました。

こうした長い建設の歴史が示すように、姫路城は一つの塔だけで成り立っているわけではありません。東西約950〜1,600メートル、南北約900〜1,700メートル、周囲約4,200メートルという巨大な城域を持ち、その面積は233ヘクタールにおよびます。堀・石垣・門・櫓・土塀などが幾重にも重なったこのスケールの大きさこそが、城を難攻不落かつ長命なものにしてきました。

それでも一度は消えかけた城

爆弾は降った。城は立ち続けた。

姫路城を脅かしたのは、戦争や地震だけではありません。

明治維新後、多くの日本の城郭が破却されました。姫路城も1871年に廃城となり、一部の渡櫓や門は陸軍兵舎建設のために取り壊されました。政府の方針によっては、城郭全体が解体される寸前までいっていたのです。

この時、姫路城の保存に奔走したのが陸軍中佐・中村重遠でした。後にその功績をたたえて、菱の門近くの城内に中村を顕彰する碑が建てられています。1872年には城は正式に軍用地とされ、1874年には一時的に第10連隊の連隊本部として使用されました(その年のうちに別の部隊に引き継がれています)。

保存の動き自体は1877年から始まりましたが、本格的な修理に必要な大きな政府予算が付いたのは1910年になってからでした。第二次世界大戦後には、さらに大規模な補修が必要となります。1956年から始まった修理では、延べ25万人工を投じ、総工費は5億5,000万円に達しました。

つまり、姫路城が残ったのは単なる「運の良さ」ではありません。何度も「壊すか、残すか」の岐路に立たされるたびに、人々が保存と修復、保護を選び続けた結果でもあるのです。

伝説を支えるリアルな構造

姫路城がどこか現実離れして見えるのは、その評判と実際の姿があまりにもよく一致しているからかもしれません。真っ白な外観は軽やかで優美な印象を与えますが、その内側は分厚い壁や狭間、堀、隠された防御機構を備えた、徹底した要塞構造です。

大天守の一階は約554平方メートルの広さがあり、畳に換算すると330畳以上になることから「千畳敷」とも呼ばれます。畳は日本の伝統的な床材で、この広間の壁にはかつて火縄銃や槍を立てかけるための武具掛けがずらりと並んでいました。一時期、城内には火縄銃が約280挺、槍が約90本も備えられていたといわれています。

上層階には、窓際に石落としのための張り出しや、侵入してきた敵を不意打ちできる「武者隠し」と呼ばれる小部屋が設けられていました。また、籠城に備え、米・塩・水などを蓄える蔵が設置され、内堀の内側だけでも33か所の井戸が掘られていました(うち13か所が現存)。

こうした要素は、壊れやすい記念碑のそれではありません。綿密に計画された軍事施設そのものです。

要塞から世界的な象徴へ

現在、姫路城は松本城・熊本城と並び「日本三名城」の一つに数えられています。1993年には、日本で最初期に世界遺産(ユネスコ)に登録された文化財の一つとなりました。城内の5棟は国宝に指定され、中堀内の区域は特別史跡に指定されています。

姫路城は日本で最も来訪者の多い城でもあり、2015年には年間286万人以上が訪れました。2010年から始まった平成の大修理では、建物の保存とともに屋根や外壁の洗浄・補修が行われ、2015年3月27日に一般公開が再開されています。長年の汚れが落とされ、屋根や壁はかつてのような鮮やかな白さを取り戻しました。

このまばゆい白さが、姫路城を「時を超えた存在」に見せている一因です。しかし人々を惹きつけるもっと根源的な理由は、きわめて単純です。——この城は、ひたすら「生き延びてきた」からです。

廃城、計画された取り壊し、戦時の爆撃、そして大地震。姫路城は幾度となく消え去る危機に直面しながら、そのたびに残されてきました。美しさ、規模、歴史的価値、そして並外れた「生存記録」を同時に誇れる建物はそう多くありません。姫路城は、その数少ない例の一つなのです。

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