かつて物理学が哲学の一部だった、と聞くと違和感を覚えるかもしれません。現代では、哲学と科学は別々の営みとして扱われがちです。一方は抽象的で大きな問いを立て、もう一方は実験を行い予測できる理論を築きます。けれど、長い歴史のあいだ自然の研究は「自然哲学」と呼ばれる分野に属していました。
この古い知の整理のしかたは、なぜ哲学が今でも特異な位置づけにあるのかを説明してくれます。哲学は古くからあるのに、いまだに完結していない学問です。そこから多くの専門分野が生まれていきましたが、同時に、それらの分野が前提としてしまうような大きな問いを、哲学は問うことをやめていません。
DeepSwipe でストーリーを見る

「自然哲学」とは何だったのか
近代以前、「哲学」という言葉は、現在よりはるかに広い意味を持っていました。のちに個別の科学として独立していく多くの理性的探究の営みが、その中に含まれていたのです。その主要な枝の一つが自然哲学であり、自然界の研究を担っていました。
当時の意味では、現代なら物理学・化学・生物学と区別されるような対象も、すべて一つの大きな哲学的な傘の下に収まっていました。この名前そのものが目標を表しています。つまり、自然を理性的かつ体系的に理解しようとする営みだったのです。
よく知られた例が、アイザック・ニュートンが1687年に著した『Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的諸原理)』です。今日では物理学の本として受け止められていますが、そのタイトルにはなお「自然哲学」という古い表現が使われています。この題名には、哲学と科学の境界がいまのようには引かれていなかった時代の空気が刻まれています。
科学が哲学から分かれていった理由

時代とともに、「哲学」という言葉の意味は次第に狭くなっていきました。さまざまな分野がそれぞれ独自の方法・概念・目的を発達させるにつれ、学問としても分化していったのです。かつて哲学の一部だったものが、徐々に物理学、心理学、その他の科学になっていきました。
この変化はとくに近代の終わりごろに顕著になり、哲学はより焦点を絞った営みとして理解されるようになりました。ほとんどすべての理性的探究を含む広い意味ではなく、形而上学、認識論、倫理学といった領域と主に結びつくようになったのです。
形而上学は、現実のもっとも一般的な性質を研究します。存在とは何か、対象や性質や因果関係、空間と時間、人間は自由なのか、といった問いを扱います。
認識論は、知識の研究です。知識とは何か、それはいかにして得られるのか、どこに限界があるのか、どのようなときに信念が正当化され真であると言えるのかを問います。
倫理学は、道徳原理や正しい行為を探究します。人はどのように生きるべきか、よい生とは何か、行為や制度をどのような基準で評価すべきかを考察します。
こうしたテーマが哲学の中心的な関心事となる一方で、科学はより専門化された経験的調査に集中するようになりました。ごく簡単に言えば、科学は個別の観察や法則に重点を置くようになり、哲学は現実・知識・価値・意味・方法といった、より一般的な問いに取り組み続けているのです。
「諸科学の産婆」としての哲学

哲学と科学の関係を表す印象的な言い方に、哲学を「諸科学の産婆(助産婦)」と呼ぶものがあります。この比喩は、哲学がさまざまな学問分野を生み出す手助けをするが、それらが十分に発達すると哲学から独立していく、というイメージを伝えています。
この説明は歴史的な経緯ともよく合致します。多くの個別科学は、哲学から生まれてきました。ある対象領域が、もっとも基本的な概念や前提、方法をまだ模索しているあいだは、その探究は哲学的な様相を帯びがちです。しかし、しだいに明確な手法を確立し、独自の成果を蓄積していくと、それはもはや哲学の一部とは見なされなくなることが多いのです。
このことは、なぜ哲学が中心的でありながら、どこかつかみどころがないように感じられるのかも説明してくれます。哲学はしばしば、まだルールが固定されていない「境界領域」で仕事をしているからです。
科学と違って見えるのはなぜか

哲学を科学と緊密に結びつけて定義する立場もあります。哲学をそれ自体、一つの正当な「科学」と見なしつつ、ただし対象とするのは個別の観察事実ではなく、より抽象的で広範なパターンだとする考え方です。しかしこの見方には、すぐに浮かぶ疑問が伴います。もし哲学が科学と同じようなものなら、なぜ科学と同じペースで「進歩」していないように見えるのでしょうか。
この問いに対しては、まったく異なる二つの答え方があります。
一つの答えは、哲学は一種の暫定的な、あるいは未成熟な科学だと見る立場です。この見方では、ある哲学の下位分野は、それが十分に発達した科学になった時点で、もはや哲学ではなくなることになります。そう考えると、哲学が科学のようにストレートに成果を「積み上げて」いないように見える理由も説明できます。哲学の成功は、ときに「分離」として現れるからです。ある問題が安定した専門的手法で扱えるようになれば、その問題は哲学の巣を離れてしまうのです。
もう一つの答えは、むしろ哲学と科学の違いを強調します。この立場では、哲学は単にもう一つの科学ではありません。むしろ、意味や理解、概念の明確化、方法や前提についての反省を引き受ける営みだとされます。科学と競合するのではなく、科学が当然視している前提を、哲学は問い直すのです。
科学が前提にしているもっと深い問い

哲学はしばしば、自らの方法や前提を振り返る理性的で批判的な探究として特徴づけられます。この自己反省的な性格は、哲学を哲学たらしめている要素の一つです。
科学は世界について非常に多くのことを教えてくれますが、「何が説明として十分なのか」「証拠とは何か」「真理とは何か」「観察はどのように理論と結びついているのか」といった問いを立てると、そこには哲学的問題が立ち現れます。これらは単なる専門的な科学の内部問題ではなく、科学的探究そのものを成り立たせている枠組みについての問いだからです。
ここで重要になるのが科学哲学です。科学哲学は、科学に関わる基本概念・前提・問題を検討します。科学とは何か、擬似科学とどう区別するのか、どのような説明が妥当と見なされるのか、科学的方法はいかにして知識を生み出すのか、といった問いを扱います。
さらに、経験的観察がどこまで理論から独立しているのか、あるいは観察そのものがすでに理論的前提に左右されているのか、提示された証拠は競合する理論のどちらを選ぶのに十分なのか、といった問題も探ります。これらは、探究という営みの土台そのものに関わる問いであるため、典型的な哲学的問題とされるのです。
哲学は「概念を片づける」仕事でもある
哲学が科学と同じ姿に見えないもう一つの理由は、哲学がしばしばデータを集めるよりも、概念を明確にする仕事に重点を置くからです。代表的な方法の一つが「概念分析」であり、ある概念を、その構成要素をたどることで理解しようとします。
たとえば哲学者が「知識とは何か」と問うとき、必ずしも実験室に向かうわけではありません。むしろ「何をどのような条件のもとで『知識』と呼ぶのが筋が通っているのか」を整理しようとするのです。「正義とは何か」「現実とは何か」「よい議論とは何か」といった問いについても同様です。
日常言語の使われ方を重視し、ふだんの言葉遣いを丁寧に調べる立場もあれば、思考実験と呼ばれる想像上のケースを用い、原理を試したり隠れた前提をあぶり出したりする方法もあります。これらの手法は、科学の計測に比べると具体性に欠けるように見えるかもしれませんが、そもそも対象としている問題の性質が異なるのです。
哲学に残った中核領域
科学が哲学から枝分かれしていくあいだにも、哲学には変わらず残り続けた領域があります。
論理学は、正しい推論を研究し、よい議論と悪い議論をどう区別するかを問います。前提が真であれば必ず結論も真になるような演繹推論だけでなく、帰納やアブダクション(仮説的推論)といった非演繹的な推論も調べます。また、誤った推論である「虚偽推論(詭弁・誤謬)」も分析の対象です。
形而上学は、もっとも一般的な水準で現実がどのようなものかを問います。存在論(より根本的に何が存在するのかを問う学)や、世界全体を対象とする哲学的宇宙論などを含みます。
認識論は、知識・真理・信念・正当化・合理性を研究します。私たちはどのようにして知識を得るのか、懐疑論にどう答えうるのか、といった問題に取り組みます。
倫理学は、道徳・正しい行為・人格・行為や制度を評価する基準を扱います。
これらの分野は、科学と完全に切り離されているわけではありません。重なり合う部分も多くあります。それでもなお哲学と見なされるのは、そこで扱われる問いがあまりに一般的であり、どれほど高度に専門化した科学であっても、それ単独では決着をつけられないからです。
自分自身を問い直す学問
哲学には、自らの対象を調べるだけでなく、自分自身の性質をも検討するという特異な面があります。哲学とは何か、どう定義されるべきか、どのような方法を用いるべきかといった問い自体が、哲学の問題なのです。
ある立場は、純粋な推論や批判的省察といった方法によって哲学を定義します。別の立場は、現実・知識・価値といった「もっとも大きな問い」を扱うことによって哲学を特徴づけます。さらに、哲学を「思考についての思考」、あるいは言語が引き起こす混乱を解きほぐす営みとして理解しようとする見方もあります。
このように、自らの問いを自分に差し向ける癖があるため、哲学はいつまでも決着がつかないように見えるかもしれません。しかしそれは同時に、哲学の価値の一部でもあります。哲学は、単に答えを差し出すだけでなく、「本当に問うべき問いは何なのか」を明らかにすることが少なくないからです。
科学が独立したあとも、哲学が必要であり続ける理由
諸科学が哲学から独り立ちしたあとも、哲学は時代遅れにはなりませんでした。むしろ、他の分野の性質や限界を検討することで、学問どうしをつなぐ重要な役割を担い続けています。さまざまな分野の基本概念・前提・方法を分析する橋渡しの役割を果たしているのです。
その役割は、「何を証拠と見なすか」「どのような説明を受け入れるか」「どんな基準で行為を導くべきか」を人々が決めなければならないあらゆる場面で重要です。科学だけでなく、法、ジャーナリズム、政治、医療、ビジネス、宗教、数学、コンピュータサイエンスといった領域にも深く関わっています。
その意味で、自然哲学の歴史は単なる昔話ではありません。そこにはつねに変わらない何かが表れています。すなわち、哲学とは、前提や基礎がまだ固まっていないときに探究が出発する場所であり、ある分野が自らの前提を見直そうとするときに、ふたたび戻ってくる場所なのだということです。
哲学を生かし続けている「なぞ」
たしかに、かつて物理学は哲学の一部でした。しかし、それ以上に興味深いのは、その分離のあとに何が残ったのか、という点です。
科学が専門化していっても、哲学が消えてしまうことはありませんでした。哲学に残ったのは、もっとも広く、もっとも扱いにくい問いです。何が存在するのか、私たちは何をどこまで知りうるのか、どう推論すべきか、どう生きるべきか、そしてどんな実験を始めるより前に、私たちの方法は何を前提にしているのか、といった問いです。
そのため哲学は、科学よりも古く見えると同時に、妙に永続的なものにも思えます。どれほどある分野が技術的に洗練されても、消えてなくならない問いを哲学は問い続けるからです。そして、どの分野であっても自らの基礎にまで降りていくとき、その足元にはたいてい哲学が待ち受けているのです。